『楽興の時』大久保喬樹(1977年音楽之友社)

 著者は昭和21年生まれの比較文学の研究者。25歳秋から27歳夏までのフランス留学の間に触れた音楽のことを書き綴ったもの。出版された昭和52年は私が働き始めて数年目、未だ混沌たる自分の有様に戸惑う頃であった。

 書名に導かれて読み始め、すぐに思索の深さ筆致の静かさに惹きこまれた。著者が自分より少し年長のほぼ同年代であることは驚きであったが同時に何か誇らしいことでもあった。書くという行為に対する誠実さや、一つ一つの言葉が上滑りにならずに丁寧に選ばれていることを随所に感じる文章だった。異国に身を置いて学問をすることの意味を自らに問いつつ、生活することの本質に向かい合う姿が弛みの無い内省を経て描かれている。

 

 第1章は「ヨーロッパの手帖から」とされ、 L'art du bonheur, L'art de vivre(1) のタイトルで始まる。

 幸福の技術、生きる技術と著者は文中で訳している。「art」という語の根源を踏まえて日本語で「技術」と言い切ることには大きな意味があるだろうと思う。

 このL'art du bonheur(幸福の技術), L'art de vivre(生きる技術)と著者が表現する概念に触れる部分を以下に引用してみる。ルービンシュタインのリサイタルをパリ大学法学部の大講堂で聴いたときのことである。ヒッピーの時代でもあった。禁煙の標示にもかかわらず方々で煙草の煙があがり、皆しゃべりまくりのくつろいだ雰囲気の中で開かれたという。演奏されたいくつかの曲の内・・・・

 

「その中で何と言っても忘れられないのはシューベルトだった。それは僕が三年間ヨーロッパにいる間きいた多くの音楽のうちで最もやさしい、最も心をうつものだった。(略)それは一切余計なもののなくなった心の音楽、そして幸福の音楽だった。(略)ルービンシュタインは、若いピアニスト達がこの長いソナタに劇的な構成を与えようとしてしばしば試みるように色々幅の大きいダイナミックをつけてみたり、ことさらデモーニッシュな暗い要素をひきだそうとしたりすることは全くなかった。この八十歳を超えたピアノの名手はそういう解釈の一切に興味を失っているようだった。ただシューベルトが小さな声で語ってくるものをそのまま、そこに心を委ねて弾いていくのだった。それ以上一体何がいるだろう。それだけですでに無限の物語があるのだ。

(略)シューベルトを通してルービンシュタインが語っていたもの、それは<L'art du bonheur>とでもいうべきものだった。≪幸福の技術≫―幸福は技術だろうか。そうだある意味で幸福は技術なのだ、年をとるということが技術であると同様に。自分を厳しく律し、それによって本当に自在でやわらかな心に達し、人生と和解する――それが幸福の技術ということだ。ルービンシュタインは年齢をつみ重ねていく中で、この技術を徐々に学び、到頭、八十五歳に至ってここまできたのだった。

(略)僕はいつまでも終わらない、波のさざめきのようなアンダンテの響きをききながら、年をとるということがどれほど美しいことか、くりかえし思っていた。」

 

 この感慨が二十七歳の若者のものであることに私は敬意を抱く。老いることの実感は知らずとも、「良く年をつみ重ねた」人間の姿に見出した静かな肯定をこうして描く真摯な態度に。 

 書名『楽興の時』はシューベルトピアノ曲から取られている。原題は Moments musicaux,Op.94  (英Moment musical)で、まさに洞察を得た「音楽の瞬間」の数々を書きたかったのではないかと思う。

 なお、本書に先立つ著書『パリの静かな時』も、静謐な中に若さの輝きを持つ貴重な留学記である。私とは対極にある真面目な人物像が実に新鮮であった。しかしながら読み終えた私にさしたる向上が見られなかったのは惜しいことだ。