偲ぶ

 親しい人が亡くなった。私より十歳下の。先週御葬儀があり参列してきた。

 

 ブログで駄文を弄する気にもなれず思いもまた取りとめもなく色々と彷徨う。

故人は20年近くの年月の間には同僚でもあり部下でもあった。またなによりも

共にジャズを愛好する者同士でもあった。

 私の知らないミュージシャンをどこでどう見つけるのか「こんなのはどう?」

と教えてくれたり、自分でお気に入りのアルバムを私家版で作ってはせっせと届

けてくれたりと、その守備範囲の広さとセンスの良さにいつも目を見張ったもの

だった。イタリアの、北欧の、南米の、と視野の広さは勿論のこと選択の巧みさ

で新鮮な驚きを味わわせてくれた。年下ではあったが古い友と僭越ながら思い、

在りし日の人柄を偲ぶ。どうにも残念でならない。故人の好きなミュージシャン

の一人、Toots Thielmansの一曲。今は「聴いてくれ・・・」とこれを届けたい。

youtu.be

煙が目にしみる

 Youtubeをウロウロしていたらこんな掘り出し物に出くわした。スタンダード

ナンバーとしてお馴染みの「Smoku Gets In Your Eyes」なのだが、これをロシア

のイーゴリ・フロロフが2台のヴァイオリンのためにアレンジしたもの。原曲の

メロディの品の良さを生かして見事にセレナードと化した。もとのメロディ自体

が広い音域を動きながらも何かこう気持ちの揺れ動きを抑制を利かせて表現する

趣があるのだけれどここではそれをしみじみと語るようで深い。

 タイトルにある「煙」を子供の頃はずっと勘違いしていて、煙草を咥えたハン

フリー・ボガードみたいなハードボイルドっぽいイメージの歌かと思っていた。

実際にラッキーストライクのCMにも使われたのでそういうイメージを持っている

人はけっこういるようだし、まあそういう風に思わせるタイトルではある。

 実のところは失恋の歌。ハートに燃えていた愛の炎が消えて煙が出てる。私の

この涙はその煙が目に染みてるだけなのよ、といった具合の歌詞のようだ。前半

と後半では煙の意味が反転するのが切ない。

 イーゴリ・フロロフの作品集ということでNAXOSから出ているCDに収められて

いる演奏だがピアノのイントロから気持ちよく引き込まれる。

youtu.be

 ジェローム・カーンの作品の多くがスタンダードナンバーとして知られるが

All the Things You Are、Yesterdays、Ol’ Man River などが名高いところ。どれも

素養に裏付けられた骨組みのしっかりとした作りで、ミュージシャンにとって

は取り上げるのに覚悟が要る手ごわい素材だ。

 この曲が作られたのは1933年。当時のお約束でシートミュージックとして

楽譜が売り出されている。それによる演奏がこれ。オリジナルのアレンジ自体が

もうサロンミュージックである。作曲者の背景に19世紀のロマン派音楽の語法

があるのがよくわかる。動画の楽譜もだいぶ貫禄がついて時代を感じさせる。

youtu.be

 なお、この1933年、お気楽なように見えるがドイツではナチスが台頭し、

日本は国際連盟を脱退し華北あたりでは情勢不穏、アインシュタインアメリ

に亡命するなど、歴史の大きな動きのあった年だった。そうだったんだなあと

改めて感慨が湧く。人が音楽に何を求めていたか。

 気を取り直して、心穏やかになりたいときはナットキングコールがいい。

youtu.be

 それにしても日本語タイトルを「煙が目にしみる」と訳したのは上手いなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スピードのバッハ

 まず、この楽譜を見てみよう。この間登場してもらった無伴奏パルティータの

フルート譜である。典型的なバッハのスタイルが表れていると思う。たった一本

の楽器のための音符の連なりが圧倒的な音の運動性を発揮して迫る。始まったら

もう音自体のエネルギーの指向にのっとって止むことなく突き進む。そんな性格

がよく浮かび上がってくる。音の動き自体がコントラストを作って一本の線なの

にいつの間にか和音を感じさせその対比を生み出すという、まさにバロック音楽

の根本的性格が実現されている。譜面の見た目からもそれがわかりそうだ。

 手稿譜を見るとこんな風。これはどうも無伴奏ヴァイオリン曲の6曲と一緒

になっていたようで最初は別の楽器のために作曲されたのかともいわれている。   

実はちょっとフルートらしくないのだともいわれる(ペーターシュミッツ)。

 一見して気づくのは、始まったら止まらないという音の流れだろう。休符が

ない。切れ目は音の動きが自ずから示すであろう、演奏者に心得があるならば

それは見出されるであろうというのがここに秘められたメッセージであろうか。

余談ながら最近の若い演奏者は循環呼吸法などというものを行うようでブレス

無しで吹き飛ばすのを高度な技とする認識もあるようだがそれには疑問がある。

どうもいささか異様である。吹く方が呼吸をしなければ聴く者はただ息苦しく

なるばかりである。優れた奏者は聴者との呼吸の同調を発生させる。音楽を共

に持つとはそういうことだろう。それを指定する現代曲ならいいだろうが楽譜

に切れ目が書いてないからと循環呼吸の軽業をもってバッハを演奏するという

のはちと違うのではなかろうかと思う。とりわけバロック時代の音楽は人間の

体の自然と密接に結びついたものでもあったのだから。例えばテンポの基準が

心臓の鼓動の速さであったように。

 

 さてそこでバッハの音楽のスピード感というものに注目したいのだが、この

曲を聴いてみよう。平均律クラヴィア曲集第1巻の21番。グレン・グールド

である。これは格別。とりわけプレリュードの疾走感は目を見張るものがある。

わずか20小節で1分10秒ほどで駆け抜けるのだが、その後半に入ってから

の音型の変化の処理が他と相当に違っている。聴く者が、体ごと揺さぶられる

ような心地にさせられる。そしてそのあとのフーガが一切の曖昧さなく3声の

構造を聴かせる。これは脱帽です。バッハの音楽の持つスピード感というもの

を得心させる演奏だ。

 もうひとつスピード・バッハを。これは快活無類のバディネリ管弦楽組曲

第2番の終曲でおなじみだし単独で演奏されたりもする。ランパルの煌めきの

ある音で聴くとスピード感に幸福感が加味されていいですね。

youtu.be

 

 

 

パルティータ再び

 引き続きパルティータつながりでお時間を拝借。これ好きだなあというのを思い

出したので。同じくバッハの作品「無伴奏フルートのためのパルティータ イ短調

BWV1013」。フルート一本で実に深遠なる音楽を現出させる逸品。古今東西

数ある無伴奏フルート曲の中でもこれはもう別格というたたずまいを持っている。

バッハ自身が「わが生涯の最良の時代」と呼んだケーテンの宮廷楽長時代に書かれ

たとされている。30代の元気溌剌創作意欲満々のバッハである。このケーテン時

代には器楽曲の名作が大量に生れている。クラヴィア曲では、インヴェンションや

平均律の第1巻をはじめとする強力ラインアップだし、ほかにも無伴奏のヴァイオ

リンソナタやらチェロ組曲やらリュート曲など。その他の伴奏付き独奏曲合奏曲を

含めたら大変な数だ。それというのもケーテンの宮廷楽団の奏者のレベルが相当に

高く各楽器に名手が揃っていたという事情が背景にあるようだ。そのことは、ブラ

ンデンブルグ協奏曲の変化とアイディアに満ちた六曲の充実ぶりからもうかがわれ

る。

 

 さて、なんでまたこの曲を思い出したかというと、これを聴いたばかりにオレも

フルート吹きたいと思ったからである。よっぽど前のことなのでいつのことだった

かは記憶がおぼろなのだが、オーレル・ニコレのレコードを聴いていて「!!!」

となったのがこの曲。ほかのフルートソナタも入っていたがそちらはチェンバロ

伴奏付きで静々と落ち着いて聴いていられた。が、この無伴奏のトラックになって

鳴りだしたたった一本の笛の音。堂々かつ喨々、我イ短調を宣言す、ともいうべき

音型が確信に満ちて流れてきたのである。これはいい、絶対いい、最高の曲だぞ。

よし、オレもやる、フルートを吹かねば、と鼻息が荒くなる。単純である。若気の

至りである。何かいいもの見つけるとすぐ手を出したがる傾向があった。一応働い

ていたので分相応の楽器を手に入れてやり始めました。しかし、この無伴奏を目指

すべき頂点とするならば、実際の自分の有様は、ビギナー登山者が1合目2合目を

靴擦れの足を引きずってヨロヨロ彷徨っているようなものだから、イメージと実像

の乖離は甚だしい。難しいものですね楽器というのは。息は切れる指はもつれる立

ちっぱなしで腰は痛くなる、でなんとも悩ましいのである。当たり前だがなかなか

無伴奏にたどり着かない。まるで地球の反対側である。世界の名手が精進潔斎して

取り組む傑作だもの。無謀な話で独習者にとってはちょっとどころではなしに高嶺

の花もいいところ。基礎が大事だと教育テレビのレッスン見たり、音作りが出発点

モイーズのソノリテやったり、ペーターシュミッツの教本やったり生意気にバロ

ック音楽の装飾法なんて読んでみたり(吹けもしないのに)と、いろいろ研究の真

似事。しかし、これなどはいわゆる眼高手低のダークサイドに落ちる危険がある中

年初心者にありがちなこと。やはり地道な練習の日々こそが何より肝心だ。いつか

は・・・と思って、はいもう一度音作りから・・の日々。

 

 とは昔話。引っ越した今となっては居住環境が変わり、ピーヒャラ音を出すのは

はばかられる現状。ケースに入ったままのフルートには相当申し訳ないことになっ

ている。もはや幻のパルティータとなってしまったが、せめて名手の演奏を眠れる

フルートさんに聴かせてあげようと思い立って今日は書いたんだという訳でした。

ペーター・ルーカス・グラーフです。

 

youtu.be

 

 

 

 

パルティータがやってくる

 音もなく、ではなく音を立ててやってきた。

 昨夜のこと、寝入り端にバッハのパルティータ1番が来たのだ。目をつぶると

プレリュードの冒頭が脳中に湧いてきて悩ませる。何度も。それもどこかの名手

の見事な演奏としてではなく己の覚束ないやつで攻めてくる。しかも執拗である。

一応音響としては両手の音が鳴っている。が、指の動きなども思い浮かべながら

メロディを追っかけてるうちに、そこはもう瞑目して寝る態勢でもありますから、

なかば朦朧としてくる。当然、途中でふいっと消えかかるのでハッと気づくと、

リプレイ。プレリュードの楽譜全21小節で2ページあるのに10小節目あたり、

1ページの終わりくらいまでを繰り返すという、とんだシジフォスの神話を体験

いたしました。脳内でおさらい会をしていて途中でつっかえ何度もやり直してる

といったシチュエーションだ。その内いつの間にか寝入っていたようだが悩まさ

れた記憶は残っている。

 もとはと言えば日中に練習した音の残像が頭に貼りついていたのだろうと思う。

変にまじめになって眠い頭で再生してたら袋小路に入り込んでループが止まらな

いといったところだったのだろう。それにしてもだ。夢だったのか現だったのか

は判然としない。ほんとは寝てたのか。音だけの夢というのもあるのか。いっそ

楽譜も出てきてくれればよかったのに。

 

 件のバッハのパルティータ(ここではクラヴィアのための)は30代かそこら

の頃練習した。舞曲の組曲だから変化に富んでいてスポーティで楽しい。クール

だけどリズムに躍動感がある。右手も左手もまず均等に働くので充実感があって

とてつもなく練習になる。なんてことで若いころにお付き合いした曲だったのが

老境にあるわが身で「またどうだろうか」と近頃始めたのである。楽譜も表紙が

取れて持ち主同様に老いているがそれもなんとなく相身互いで親しいものがある。

改めて1番からと取り掛かった。この曲は6曲組みで概ね忙しく活気あふれるの

だが4番目のサラバンドがオアシスの様で美しい。バッハの歌心横溢である。

 若い時分にはグレン・グールドのバッハがなんというか目指すべき姿で眼前に

そびえていたものだった。2枚組のレコードで聴く度に感嘆するのであったが、

今改めてレコーディングデータを見ると1959年である。こちらは9歳の田舎

のはだしの小学生。そのころバッハと言えば親父の持っていたランドフスカ演奏

チェンバロのレコードをちらっと見るくらい。あれは10インチ盤だったろう

か。ジャケットの絵をうっすらと覚えているだけだ。

 さて、そのグールドを実際にレコードで聴いたのはレコーディングより20年

以上後のこと。今はもう廃盤となってるみたいで同じものはアマゾンにも見当た

らない。手元にあるこのジャケットはだいぶ色もさめてしまった。

30歳かそこいらの写真であろうか若いグールドだ。このレコード出した後数年

でコンサート出演をやめ人前に出なくなる。

 

 さて、練習を再開するにあたって指標となる良き演奏をと探ってみたのだが、

このグールドのすごさは今でも変わらないのだが、今少し色合いの異なるものは

なかろうかとYoutubeを渉猟してみるとまあずいぶんあること。面白いのは演奏

時間がマチマチでテンポの取り方に色々あること。そういう意味ではグールドの

テンポ感はタッチの明晰と相まってまさにこれぞという感じでやはりすごいもの

だと思った。しかしこちらの感覚もアップデートを要求している。今少し探ろう

とウロウロし、あーピレシュはどうだと聴いてみた。シフにはちょっと肌合いの

合わなさを感じた後だったのでどこかホッとするものがあった。ピレシュはモー

ツァルトが評判いいがこのパルティータもなかなか。どこか自然な呼吸の抑揚が

感じられていいなと思ったのであった。レビューを見ると、学識豊かな方がリズ

ムがなっとらんなどと貶しておられたがわが耳の鈍い感度では一向にそのような

ことは感知できずいい気持ちであった。マリア・ジョアン・ピレシュGood Jobだ。

www.youtube.com

 

 

 

 

 

道草食って一年半

 ついついブログの更新を先送り、というよりほったらかしにしていたら

なんと一年半が経っていた。長い道草というかむしろ行方不明に近いかも

しれない。新型コロナの波に呑まれないように逼塞していたという訳では

ないが一応行動の不自由を満喫しつつ、またワクチンも3回頂戴して備え

つつといった日々を過ごしてきた。ブログ的には「かくも長き不在」では

あったが、ここに来てなにやら復活の機運が自分の中で芽生えてきたので

さてさて道草もそろそろこのへんでとなった次第。

 ささやかなブログではあるがこれでも名前の「立ち寄り」どおりに時折

訪れてくださる方がおられるのがありがたい。実はここ数日来のことだが、

ふと思い立って当ブログの管理画面に行ってみたら、更新もしてなかった

にもかかわらず訪問者がちゃんとあるのに恐縮していたのである。ちょっ

とこれはキミなんとかせにゃいかんよ、と良心が囁いたのであった。

 

 もとより当方なんの専門がある訳でもなし、至って気楽なよしなしごと

を漫然と書き連ねるだけなのだが、それをちょっと冷やかしに立ち寄って

くださるのなら嬉しくありがたいことだ。そういうことでまた始めよう。

 

 今のところ興味の赴くところの一つが音楽になるが、これはこれで魅力

の泉。人それぞれに「my favorite」があって、ジャンルが何であれそれは

その人の心の拠り所となるのが音楽というもの。わが年若の友人であるが

こよなくジャズを愛する一人がいて探求心に限りというものがない。古き

を愛でるのは勿論のこと、新しきに対しても広くアンテナを張り収集に怠

りない。琴線に触れるものに出会うと私家版のCDを作って送ってくれる。

ジャケットも丁寧に作成して毎回スキルアップの様子が見える。ちょっと

した工房である。アトリエ〇〇〇〇とデザインしたロゴのシールを貼って

くれているのがまたいい感じ。おかげでずいぶんと知らないでいた逸品に

巡り合えた。ジャズの世界ももはや理論や技法の展開が天井近くまで行っ

てしまった感があってそういう意味ではクラシックの現在と並ぶラインに

あるのかもしれない。より普遍的な意味を持つものになっていると言って

もよいだろう。初期の頃からジャズとクラシックは互いに吸収しあうこと

で洗練の度合いを増してきた経緯があるから当然のことでもある。

 

 そういう新世代のいわば「こだわりのない」ミュージシャンがいろいろ

いて面白い。伸びやかにジャズにおける美を求めるという姿勢がジャズを

より普遍的な音楽にしていくことにつながるのではないかと思う。バップ

にあらずんばジャズにあらずとか前衛(運動)をゴリゴリ押し通すという

窮屈さはむしろ耳にフィルターをかけることにもなりかねない。ピアノを

奏でてそこにどんな響きが生まれてくるのか、それぞれのミュージシャン

がそれを追い求めればいい。それを好んで聴くことができればそこに音楽

の意味の場が生じる。来し方行く末に色々と思いを馳せる時間が、ほら。

 ピアノはイタリアのMichele di ToroそしてベースがロシアのYuri Goloubev

というデュオのアルバム「Duonomics」から「What are you doing the rest

of your life?」という曲。老人には相当に意味深長なタイトルであります。

www.youtube.com

 

 

 

 

 

 

 

音が語る

何年かぶりの大雪でひどいことに。特に県南部は暮れから毎日の雪との格闘で

まさに災害。疲労困憊だ。そうこうするうちにわが方面でもドカンときました。

暴風雪で広範囲の停電、風が収まっても雪は続く。黙ってのっそりと積もって

いく。文字通り見る見るうちに何もかもが埋まっていく。美しいがオソロシイ。

という訳で二日ばかり家に足止め状態だった。その間動かせずにいた車を今日

は掘り出しました。50センチ以上ですかね。すっぽりと雪中貯蔵である。

 

屋根にものっそり四方は窓まで埋もれている。まずどこから手を付けるべきか

と攻め口を検討。と言ってもなにしろどかした雪の遣り場がない・・・・という

次第で、あとはもう覚悟を決めてひたすらラッセルと積み上げに精進。無我の

境地に至る。なので以下略。何はともあれ作戦終了。ホッカホカの体で買い出し

にGOとなった。心無しか行き交う車が少ない。ふむ人々も除雪に勤しんでおる

のだなと連帯感に胸を熱くするのであった。これが雪国の日常。

 

さて、コロナだ自然災害だとロクでもないことに追いまくられて一向に気が晴れ

ないのではあるが、なんてったってニュー・イヤーですからね、気持ちを立て直

さなければ。「待て、而して希望せよ」とモンテ・クリスト伯爵も言っとります。

 

ヨー・ヨー・マが1月1日にアップしたこの動画。彼が選んで演奏したバッハに

託したものは何か。それはおそらく「持続、エネルギー、希望、信頼」を今こそ

取り戻そう大切にしようといったメッセージだろうと思う。動画に添えられた文

も転載するが、下手な訳で主旨を損なうといけないから原文のままとする。音楽

はまさに「言葉なくして語る」ものなのだなあと改めて思う。また、その意図を

言葉にするとき、それが演奏と肌合いを同じくするものになっているという所に

誠実さあるいは真情というものが出るのだなあと感じる。演奏と言葉とその両方

に触れてなんというか感謝の念を覚えたのでした。

 

  We usually start the year quietly. But this year we need energy. We need everybody’s

 energy to rebuild and to move forward. We need to commit to fighting for a world that

  allows for everyone to be healthy and to thrive. On this New Year’s Day, I hope that this

  musical flow of energy charges you to move, to act, and to feel common purpose.

  Happy new year to you all.

 


Prelude to Cello Suite No. 6 in D Major, J.S. Bach #songsofhope

そしてこれはヨー・ヨー・マが #songsofcomfort という昨年からのプロジェクト

の一環として投稿している一連の動画の一つ。他にもたくさんあるのだがここ

では「愛の挨拶」と「オーヴァー・ザ・レインボウ」を上げてみる。


#SongsOfComfort: "Salut d'Amour" by Edward Elgar

 


Yo-Yo Ma, Kathryn Stott - Over the Rainbow (Official Video)

 ヨー・ヨー・マもいいおじいちゃんになってきましたな。65歳だもんな。

でもこの衰えぬ情熱、歌の心、偉いものです。皆さん頑張りましょう。