守安祥太郎 「モカンボセッション」

 守安祥太郎というジャズピアニストがいた。大正13年に生まれ戦後の日本のジャズを牽引したが31歳で不慮の死を遂げた。

 多くのミュージシャンに影響を与え日本のビバップの先駆者であったことは言うまでもないが、ビバップの語法を完璧に消化し、世界に通用する独自の世界を作り上げていたことは驚異的である。レコードから書き取った楽譜や研究の成果を仲間に惜しみなく分け与える温和な人柄と、音楽への集中、献身の桁違いの凄さを、同時代を過ごしたミュージシャンは敬意を込めて語っている。ただし秋吉敏子を除いては。彼女は自伝でも守安には一切触れていない。他の場面でも、世話になったこともないしライバルでもなかったとまで言っている。いささか腑に落ちないことではある。

 

 守安祥太郎の生涯は、植田紗加栄の著書『そして、風が走り抜けて行った』(講談社)で知ることができる。克明な取材と調査で戦前戦中戦後の動きと共に、この天才が帯びている悲しみの影のようなものを伝える力作である。

 なお、彼の父親が湯沢の「秋田木工」の理事であったというのは思いがけない秋田との関連であった。  

 

 演奏の貴重なドキュメントとして、昭和29年7月、横浜のクラブ「モカンボ」でのジャムセッションの録音が残っている。当時19歳の大学生岩味潔氏自作の録音機によるものである。軍放出の部品などを神田秋葉原で買い集め、特注の鉄製ケースに納めた重厚なる機材であったという。

 岩味氏はモカンボの床に座り込み3日に及ぶジャムセッションの最終日の演奏を収録した。録音メディアはまだスコッチの紙テープの時代である。それを世に出すべく、油井正一氏と共に二人の姓をもじった「ロックウエル」レーベルを立ち上げレコード化したが会社は消滅、レコードも市場から消えた。それが70年代に「幻のモカンボセッション」としてLP化され、後にCD化もされたが今日では最早入手の難しい伝説の「音盤」となっている。

 一曲目が「I want to be happy」。宮沢昭のテナーも大したものだが、圧巻はやはり守安のピアノである。長いアドリブコーラスに一貫するスピード感と強靭なタッチ、弛むことのないフレーズの展開に驚かされる。

 

 

  この演奏が目指した、いわば手本がソニー・スティットバド・パウエルのものだと言われている。しかし聴き比べてみると創造の熱気においても完成度でも、彼らがしっかりと独自の世界を作り上げていたことが分かる。

 

  

 およそ60年前の、音楽に燃えていた若者達の残したこの記録を聴くと、自分の心に残る熾火にも気づかされる。