音の不思議

 言うまでもなく、音楽は音でできている。それも偶然のものではなく意図的なもので。作曲であれば構成され設計された音、演奏であれば人の手によって表現の姿を与えられた音ということになるだろう。そして、この意図と表現の一致の実現に音楽家は一生をかけて精進するのだが、たやすいことではない。音楽家というのはこの面では相当に苦労人なのである。かといってその苦労が表に見えるようでは一流とは言えず、「さりげなく」あってこそ「お見事!」となるのだろう。楽屋を見せない奥床しさが身上である。

 

 長い音楽の歴史にはこれが歪められた形で表れていた時代がある。50~60年代のクラシック界だが、代表にジョン・ケージという人がいる。『4分33秒』なる「曲」を発表したことがあるが、これはさりげないというよりも「何もない」というべきで、早い話が偶然を頼りに屁理屈をこねあげたもので、人を馬鹿にした話。楽譜(!)を抱えたピアニストがステージに出てきて4分33秒の間ピアノの前に座って何もしないというのである。時間が過ぎればステージから去る。その間に聞こえてくる音全てが音楽だというのである。これを当時大真面目に受け止め拍手する動きがあった。パフォーマンスする方もどうかと思うのだが、いわば音楽における一種の政治運動であった。音楽の成立の前提自体を疑うのを「高度」とした欺瞞的理論が新しいとされた時代である。美術でも同じでしたね。なんでも否定し破壊するのがかっこいいという幼稚さがもてはやされた時代。未熟が甘やかされた時代です。

 

 と思いがけず前置きが長くなってしかも横道に逸れてしまった。今一度出直しますと、表現の「意図」という芸術の核心に迫って語るのは身の丈に合わないエライ仕事になるので、まず「音」そのものの持つ不思議にびっくりしようというのが本日の「意図」であります。

 

 音の入口は耳。その耳にも目と同様に錯覚があって、こちらはあまりなじみがないと思われがちだが、実はそれだけ聴こえることが「アタリマエ」になっているとも言えるようだ。身近なところでは、小さなスピーカーでも低音がちゃんと聴こえるとか、雑音で途切れているのにメロディがつながって聴こえるといったよく考えると不思議な現象がある。ステレオなるものだって二つのスピーカーの間にステージが出現するというマボロシの効果で成り立っている。これは要するに脳の認知機能のなせるわざであるらしい。音のイリュージョンである。

 

 その極致と言うべきがこれ。シェパード・トーンまたは無限音階と名付けられている代物だ。聴いていると頭がぐるぐるになってしまうので大抵ののところで止めた方がいいけれど、その名の通り無限に続く。上がって行くけどキリがない、下がって行くけど底がないという不思議な音のつながりなのである。音楽は音階でできているなどと簡便な説明がなされるがそれでは辻褄が合わない「音響」と「聴く」ことの関係に秘められた現象である。

 

 

 ????となったところで次を見ると少し分かり易くなるはず。

 

 

 なんとなく「倍音」が関係するのかいなと見当がついてくるのだが、それをエッセンスのところまで絞り込んで、電子工作でちっちゃなオルガンにしてくれた人がいる。簡略ながら説明も入ってるので親切。デモ演奏もしているが、無いはずの音域の音がちゃんと聴こえるのがすごい。秋月電子のコンテストで賞を取った工作のようである。物理と音楽の接点が嬉しいではないですか。

 

 

 最後にこうした「無限」感を実際の音楽で高度に実現した例を。史上最高の設計士であるJ.S.Bach の「音楽の捧げもの」から螺旋カノンと言われる曲。これは楽譜付きで追いかけやすいです。

 

 

 いつまで続く・・・。Never ending ですね。本日は理科室っぽい話なので電子音ばかりでしたね。お疲れ様でございました。