音感と幸福感

 世のお母様方の中には、某大手楽器メーカーの展開する音楽教室の謳い文句を真に受けて「絶対音感」が才能の証と思い込んでいる向きもあるようだが要御用心。あろうことかそれによってIQが高くなるなどと宣伝して無意味な訓練を幼児に施す教室もあり、ネット上にもその類のサイトが山ほどある。怪しいかぎりである。You Tubeにその訓練風景などをアップしていたりする。全てを見た訳ではないから偏見と言われるかもしれないが、傍から見ると下手なサーカスにしか見えない。先生なるお方のピアノの音も調律が狂っていたり鍵盤を無神経に叩く汚い音だったりでおよそ音楽への敬意などありそうにない。子供の心に何かを育もうとする姿と見ることはできなかった。

 勉強熱心な場合は、有名な最相葉月の著作『絶対音感』を読んだりもするようだが、あいにく決してその類の趣旨で書かれたものではないのでがっかりするだろう。

 日本の「絶対音感」の絶対視は奥の深い問題をはらんでいる。少なくとも、その「絶対音感」と称するものを身に付けたとされる人達が幸福な音楽生活を送っているかと言えば疑問があるのだ。これはプロの演奏家も含めての話である。某国立大学の研究紀要に論文が掲載されたことがあるが、その執筆段階でプロ・アマチュアを問わず、作曲家や演奏家を含めて当事者から膨大な所感が寄せられた。共通しているのは「むしろ邪魔なことが多い」ということである。日常生活、音楽の仕事、いずれもそれがあってよかったとする例は驚くほど少ない。有利だとすれば、調性の無い現代音楽を演奏するときくらいだろうと。さらに、歌が苦手、音が言葉に聴こえるので歌詞が耳に入ってこない、キーが違うと別の曲に聴こえて混乱し歌えないし演奏できない、移調が苦手などと、音楽を享受する上での決定的な問題も語られている。要するに音楽を楽しめないというのである。幸福感とは程遠いことになっている。

 大抵の場合、ピアノの鍵盤をランダムに弾いてその音高(ピッチ)を言い当てることを「絶対音感」と称しているのだが、それだけの芸当と思った方がよろしいのではないかと思う。音楽の才能と同一視するのはもってのほかだし、あまりにも単純な発想である。第一、ピアノのピッチは平均律での調律でそれ自体が狂いをバラけさせたもの。本当の美しい響きではないのだから。そのピッチを絶対視するから弦楽器の音程が不自然になる。ドイツに留学した日本のコンクール入賞者が「お前の音程は狂っている」と言われてショックを受けた例もある。山本直純は芸大を受験した時、歌の試験であまりの音痴に試験官が笑い転げたという「絶対音感」保持者であった。浪人して歌だけ猛練習して入ったそうだが。洋の東西を問わず指揮者に音痴が多いという噂もあるくらい。

 どうやら初期の理念を外れ、太平洋戦争を経て変質し、結局日本に独自に開いた徒花であったとも言えよう。いろいろ読んでみると「絶対音感」はあってもなくても関係ないとするのが「本場」ヨーロッパのスタンスのようだ。ホロヴィッツが自分にはそれがあると大いに自慢していたというが、同行の調律師は「そうでもない」と笑っていたそうだ。肝心なのは音楽の享受能力でありこれは幸福感につながる大事なもの。子供にはそれを養う音楽教育でなければおかしいだろうと思う。あまりいじくらずに素直に育てたいものだ。

 

 次の動画は「絶対音感の日常」と題するアニメ。興味深い場面がいろいろあるのでご紹介。