音楽で眠るシアワセ

 クラシック音楽はわからんキライだ眠くなる。そう公然と宣言する反骨精神みなぎる人もいれば秘かに思う控えめな人もいる。中には聴く前から寝てるスキもキライもない天下太平な人も。まあ人は様々だが、大体においてクラシック音楽というものが人類を眠りに誘う性格を少なからず帯びているのはたしかだろうと言える。いやそれは曲に拠るだろう・・・と反論したい気持ちはわかるが、それは愛好家の贔屓というものでこのジャンルの音楽の持つ「眠らせる」機能というのはなかなかあなどれない。「大序曲1812年」でも寝る奴は寝る。大砲にもロシア国歌にも負けない豪傑はいるのだ。

 ぜひこのことを検証したいのである。そう覚悟すると身近なコンサートにおける客席も興味深い観察のフィールドとなる。大オーケストラが渾身の演奏を繰り広げるさなか、寄せ来る重厚なサウンドを吸収して軟体と化し、波に身をゆだねる蛸さながらに夢路を辿る善男善女の姿がある。これもまた有益な鑑賞の一形態として承認されるべきであろう。時折、ばさりとプログラムを落とすなどもなかなか無作為な天然の趣きがあるではないか。教養主義とは対極の「則天去私」の境地ともいうべきか。

 更にフィールドワークを深めると、イビキをもって演奏に参加する事例も発見できる。これが作曲家や楽曲の別を問わず発生する現象であることは示唆に富んでいる。もっとも作品の質と睡眠導入効果の大小との相関については未だ不明であり今後の探究が待たれる。しかしながら演奏の発生させる音量とイビキとの量的相関は、数次にわたる複数サンプルの観察によって明らかになった。 

 試みに検体Aとしよう。男性40~50代が典型と了解されたい。協力的な検体の場合、演奏開始後間もなく瞼の落下と並行してほぼ無音に近い呼吸音が安定状態に入る。これが準備段階である。曲の流れへの参入が開始されるのだ。なおこの時点で一切の精神活動の停止が生じることに留意したい。純粋聴覚の発動と理解される。やがて検体は曲調の描く軌道への投入に成功し同期を果たす。囁くような愛らしいぷーぷー寝息を立てはじめることがそれを示す。幸福感はこの段階が最も高いと推測される。しかし研究にとってのリスクもまた高いのがこの段階である。往々にして非協力的な奥様が隣席から肘打ちを食らわせるという心ない行為に及ぶことがある。妨げになるので事前の説明が十分になされなければならない。順調な場合、事態は音楽と軌を一にし、いよいよ怒涛のクライマックスにハナを添える轟然たる大イビキにまで出力が上がる。臨界への到達である。上級者になると近代作品に多用されるシンバルや銅鑼とタイミングを合わせる高度な技も見せる。もっともフライングもある。ひとり飛び出し、全休止で一同固唾を呑む瞬間に「んごっ」という事案である。この場合周囲から突き刺さる憎しみの眼差しを非人間的とは責められない。ともあれ、その概ね忠実なシンクロぶりは、音楽を全身で聴取していることを示しているにほかならない。眠っているが聴いているのである。奥様にはこのことを深く理解していただきたいものだ。単純なる睡眠行動とは異なるのである。そのエヴィデンスは、最後の和音の鳴り終わるや否や彼が豁然と目覚める現象で得られる。検体は即座に拍手喝采モードに移り、誰よりも猛然と手を打ち合わせる。かくして彼は、其の夜のコンサートにおいてアンコール曲ただ一曲を覚醒状態で聴取したという事実を糧として、充足感とともに会場を去るのだ。良き眠りこそ心身の滋養である。たとえ奥様に心なしか不機嫌の気味があったとしても。

 ひとのことばかりは言えない。ワタクシにも忘れられない文字通りの寝落ち体験がある。遡ること何十年になるのか、昭和の30年代初頭であったろう。われ小学二年児童でありし頃、当時本邦楽壇における大スター、安川加寿子女史によるピアノリサイタルが秋田県本荘市にて催されたのである。我が両親の興奮ひとかたならず、本荘市よりやや南寄り沿岸部に住まいする薄給の田舎教師の身ながら、早速にチケットを購入し指折り数えてその日を待った。精進の甲斐あり、天変地異もなく当日となった。さてとばかりにお出かけの準備をする両親を眺めているとわれを手招きする。ははっと伺候すると、お前も行くのだからその泥だらけの顔を洗って来いとの仰せである。兄貴らはニヤニヤしている。どうやら両親め、懐具合と談合の上、三人の息子の内希望者一名のみを連れて行くから有難く思えと長兄次兄には話していたようだ。奴らは有難いとは思わなかったようである。

 末子はあわれである。重要案件は決定の後知らされる。いつものごとくそのオハチは(兄貴らの熱烈な推薦によって)一番下のわれに譲られてきたのだった。兄貴らは鬼の居ぬ間のフリータイムである。奴らの幸運はわれの不運。実に男の兄弟などといいうものは常在戦場の実態があるのだ。そして、この件に限らずだが、いつの間にか「お前だけが連れて行ってもらった。お前ばかりが可愛がられた」という話にすり変わるのである。歴史認識というのはかくのごとく恣意的に変造されるのであるからアテにならないのだということを我が国の人々にはよくよく知ってもらいたいものだ。

 さて、ちょいちょいと顔など洗ったふりをし、一夜の自由を得た兄貴らを一睨みし両親に引っ張られて家を出た八つかそこらのわれである。もとよりピアノリサイタルの何たるかなど知る由もなし、また、親の方でもなんでこのチビが行くことになったのか今ひとつ釈然としないという曖昧模糊とした空気をまといつつ歩み、仁賀保の駅から汽車に乗って本荘に着いた。会場となったのは田舎のこととて大人数の収容は学校の体育館しかない。駅にほど近い県立由利高等学校という女子高である。体育館にパイプ椅子がぎっしりと並んでいる。両親もいくらかは頭を働かしたと見えて早めの到着である。最前列中央部やや左よりに3人並んで席を占めることができた。これは安川女史の演奏中のお手手を有難く拝見しよう、またこのチビすけにも美しき女流ピアニストを間近に拝ませようとの思し召しであったようだ。情操教育だと。まあそれも通じればこその話。子供の方はたいてい知ったこっちゃないです。

 開演の時刻となり満席の会場がしんと静まりかえる中、安川加寿子女史が登場。見たこともないような美々しい衣装である。上品な挙措動作。満堂の男どもはみなランと目を瞠り、御婦人方は羨望の眼差しを注ぐ。だったろうと推測する今のワタクシである。当時の小二児童にそんな事情の分かるはずもない。昼の遊びの疲れで既に眠気が差している。

 演奏は楽聖ベートーヴェンの「ピアノ奏鳴曲作品27の2 月光」で始まった。第一楽章、なんという穏やかな調べ。やわらかに浮かび上がる憧れを潜ませたメロディ。寄せては返すリズムに身体が同期する。人は聴き入りウットリとする。われはコックりとする。たちまち誘われる夢路であった。由利高等学校の体育館に響き渡る一流ピアニストの奏でる美音。演奏はいよいよ佳境にさしかかるのであった。

 悲劇はいつも最大の効果をもって発生する。ああ窓辺に差し込む月の光の美しくも冴えわたる様よ・・・などと聴衆が夢心地となる・・・その時、突然の衝撃音とともに一人の少年が椅子から落下したのである。大いなる音は、はずみで倒れた椅子が床との間に発生させたガッタン音であった。ほぼ昏睡状態までに陥っていたわれは床に伸びた後さいわいにも無傷で目覚めおもむろに椅子を直し、ちゃんとすわって今度は真摯に耳を傾けるべく努力を惜しまなかったのであった。頬に感じる両親の視線が痛かった。しかしながら、実は最も印象的であったのはステージから注がれた安川加寿子先生の慈愛に満ちた眼差しであった。やはり大物は違ったものだ。本当に品のいい人はものごとに動じないのである。

 両親の感じた衝撃や後悔もまた並大抵のものではなかったろうと今は思う。が、二年坊主としてはただただ早く帰って寝たい一心であった。なんしろ晩御飯食べながら眠ってしまい持った味噌汁をばさりとぶちまけるのが日常のわれである。連れて行く方が悪いのだ。

 無駄話も大概にして、音楽で眠るということに戻ります。

 眠りと音楽との関係の深さということについては、「子守唄」なるものが地球上のいかなる民族においても存在することによってもうかがいい知ることができる。その不思議な作用は伴う数々の要因の総合によるものであるとは思うが歌あればこそが当たり前だ。ゆったりとしたリズムに合わせて赤ん坊を揺らす動きは音楽の身体に対する同期作用を利用するものであるし、旋律の動きも調和のとれた安定感を持つものでなければ赤ん坊が困る。12音技法による子守唄では親も子も気が休まらない。意外性や驚き、聴くたびに新発見、といった曲では子守唄になるまい。繰り返しの要素が興味を引きつつ安心をもたらす。音楽的変化は安定した形式やそうした繰り返しの土台の上に乗った河のような時間の流れを感じさせるものでなければならない。身体的には、身体を揺らしたりポンポンと赤ん坊をゆっくりとしたリズムでパッティングすることで音楽との同調を促す。また、肝心なのはそういった行為がなかば無意識になされることだろう。そこに赤ん坊と寝かしつける者との同調がある。親が先に寝入るのはよくあることだ。

 大人であろうと事情はそんなに違いはない。三べん回ってベッドに入るとか枕を叩くとか変わった入眠儀式を持つ人もいるだろうけれど、決まった音楽をかけてそれで安らかに寝入るようにしている人は多いのではないか。音響機器にもスリープ・タイマーがついている。使う曲は人それぞれで、どんなものだろうとそれはお好みだ。要はそれで眠れること、それが身体に反射的に作用すること。音楽で眠れるというシアワセはずいぶん大きなものがある。ストレスとストレスが合体して発達した台風のようになっている日々を暮らす現代人にとってそのシアワセは、日々をなんとか意味あるものに感じてやっていくためにもぜひ確保しておきたい。

 18世紀の昔にもきっとそんなことを考えたのだろう、眠りの音楽を切実に必要とした人がいる。睡眠のための音楽をバッハに発注したことで知られるカイザーリンク伯爵である。当時ドレスデンの宮廷に駐在のロシア大使で、1741年かその翌年、ライプツィヒ滞在時のことだった。自分専用の睡眠導入曲を、お抱えの少年クラヴィア奏者ゴルトベルクに演奏させるために依頼した。バッハの方でもこの伯爵には宮廷作曲家の称号を獲得するにあたっての恩を大いに受けている。ゴルトベルクをバッハの弟子にしたのも伯爵である。伯爵は「わたしの変奏曲」と呼んでこよなく愛好したのだが、いつのまにかこの曲は「ゴルトベルク変奏曲」と呼び習わされるようになった。

 1740年代当時のヨーロッパを考えてみるに、ドレスデン駐在ロシア大使という立場がどれほど過酷なものであったか。現代日本の我々には想像を超えるものがあるだろう。時まさに西ヨーロッパ中央ヨーロッパ、イギリスを巻き込んだオーストリア継承戦争の時代であり、女帝マリア・テレジアvsフリードリヒ大王の宿命の対決、ポーランドもきな臭い、ロシアはロシアでスウェーデンと戦争、フィンランドも占領だ、一方本国では宮廷革命だのの騒ぎ、新大陸だって落ち着かない、地球全土で植民地分捕り競争。そんな時代である。ストレスなしにのんびり駐在なんていうイメージを持ったら大間違い。火薬庫に右手にロウソク左手にマッチ持参で入ってるようなものではなかったか。であるからして、この曲の解説によくある「不眠症に悩むカイザーリンク伯爵が」バッハに書かせた曲、なんていう軽い言葉には相当に違和感を覚えるのである。ただでさえ病弱な伯爵がどれほどのストレスにさらされていたか。閣下と呼ばせてご機嫌になっている日本の大使たちや天皇誕生日の祝賀会に国旗も掲げないで平気でいるような外交もどきとは覚悟が違う。まあしくじったら命がないか投獄ですからね。

 そんな伯爵が「わたしの変奏曲」とこよなく愛した曲、本当のタイトルは随分長い。1742年にクラヴィーア練習曲集第4巻として出版されたときの表紙がこれ。相当に気合いが入っている。引用します。「クラヴィーア練習曲集 二つの手鍵盤を持つチェンバロのためのアリアと種々の変奏より成る。愛好家の心を慰めるため、ポーランド国王およびザクセン選帝侯の宮廷作曲家、楽長にしてライプツィヒ音楽監督たるヨハン・セバスチャン・バッハにより作曲。ニュルンベルクのバルタザール・シュミットにより出版」、これが表紙。読むだけで眠くなる。すでにしてまことに効果的である。

Goldberg-titlepage

 眠りのための音楽とあって長いです。たいていの演奏はおよそ1時間前後となる。下手をするとひと眠りして目を覚ましそう。でも、変奏曲という名からする「主題となる旋律の変奏」と思ったらそうではないのですね。バッハはだいたい変奏曲という形式をあまり重んじなかった。オルガンのコラール変奏曲くらいとあと少ししか作っていない。ここでバッハが使ったのはアリアの低音部、バスの進行であった。パッサカリアとかシャコンヌの技法だ。これにより、前後をアリアではさんだ30の変奏は一つ一つが実に新鮮なものとなっている。うっかり寝てられないのである。

 さて、演奏は?となるとグレン・グールドの登場が定番である。この人、2回録音していて2回目は録音スタジオの動画も残っていて面白い。極端に低い椅子、唸り声、蓋を外し独特の調整をしたたヤマハの中古グランドピアノ、等々の光景を目の当たりにすることができる。確かにこの曲の真髄を聴かせる演奏と評されるのを納得させるものがある。

 でも、ワタクシあえて別のを載せてみる。ケンプです。冒頭のアリアの装飾もあれっと思うくらい控えめなまま。でも何べんも聴こうとするなら過集中の気味があるグールドの演奏よりも、どこか滋味のあるケンプのこの演奏がいいのだなあという感じがしてきたのであった。表紙にある「心を慰める」がなによりもこの曲の眼目である。アンナ・マグダレーナが思い出として書いているバッハが夜中に長い時間クラヴィコードで穏やかな曲を奏でそれを聴きながら子供たちがすやすやと眠ったというエピソードがある。バッハこそ音楽で眠るシアワセをよく分かっていたに違いない。それに通じる演奏だと思います。でも長いからね、すこしずつ聴いてもいいと思いますよ。

 ことのついでにもう一つ。これは弦楽三重奏の編曲版。ドミトリー・シトコヴェツキーがグレン・グールドへのオマージュとして編曲したもの。いろいろ聴いてみたけれど、あ、いいなと思ったのがこのアマーティ・ストリング・トリオの演奏だった。これも時間のあるときにどうぞ。