バッハで安らぐ

 音楽の広い世界に分け入って、あれこれジャンルを横断して弾いてみたり聴いてみたり、少しは勉強してみるかと歴史を往来しても結局「マイリマシタ、降参です」となるのがバッハ、J.S.Bachである。これはワタクシごときが賢しらげに言うまでもなく、かのBeethoven先生をはじめ数多の方々が幾分口惜しさも交えつつ述懐しているところだ。要するに「バッハにはかなわぬ・・・」と。でもまあ、その割にはその後の作曲家の皆さん、あきらめることなく自分の曲を作って頑張ってきた。このあたりが芸術というものの魔でもあり面白さでもある。

 では、いったいどこが「かなわぬ・・・」のか。これを解き明かそうというのは生易しいことではないし無数の研究がこれまでなされてきた。しかし、そうした学術的な探究は世の音楽学者に精を出してもらうことにして、一介の音楽愛好家としては音楽そのものに耳を傾け、実感をもってバッハの到達した次元に少しでも触れていきたいと思うのである。

 どうしてもバッハの曲というと演奏する方も畏まってしまって、「愛でる」という風にはなりにくいようだ。したがって聴く方も顔にまで力を入れて、なにか物々しいことになる。なかでも「無伴奏○○」と題の付いた曲になると弾く方も聴く方も、果たし合いみたいな構えで臨んだりする。どうしてこうなったのか。批評家の方々も良くない。やたらと「精神性」などという言葉を使いたがる。なんのことだろう。クラシックの評論といえば何故か「崇高な」とか「比類のない高み」とか無意味で空疎なビッグワードを三行おきくらいに使うのだもの。わざわざ音楽を人の心から遠ざけようとしているとしか思えない。

 音楽は音を受けとめるもの。美しさにとろけることもあれば心をかき乱されることもある。心身ともに力が充満することもある。思考が刺激されることもある。遠い昔を思い出すこともある。それが音楽というもの。そして演奏は自分のなかにそういう聴き手としての自分を同時に抱くことでもある。それがなければ聴くに耐える演奏にはならない。

 と、つらつら考えるうちに、無伴奏ヴァイオリンパルティータの第二番の終わりの曲「シャコンヌ」をギターでという演奏を見つけた。この曲はそれこそ世界遺産の筆頭のようなもので、これ一曲だけでもバッハの名前が音楽史に残るだろう。たいへんな曲である。なのでありきたりのヴァイオリン弾きはたいてい親の敵にでもあったかのような顔で挑みかかる。なんだか違うのである。

 これを、ギターという心そのままの楽器で弾くとどうなのか。古くはセゴビアの編曲もあるし有名ギタリスト何人もが自分の編曲で演奏している。その中で、「これがいいな」と思うものを次にアップしてみたい。バッハの音楽は楽器を限定することのないユニバーサルなものだと心から納得するし、ギターっていい楽器だなあと羨ましくなる演奏だ。大曲にして難曲、耳と心を奪われ、それなのに安らぐ時間となる。

 そして、原曲に敬意を表してヴァイオリンの、これはシェリングの1975年Lugano音楽祭のライブですと。