むかしむかし

 ここのところ続いていた暑さが今度は雨にかわってひんやりするくらい。雨の音を聞きながら部屋に沈殿していたらなんとなく昔のことを思い出した。朝に浜辺をさまよわなくても昔のことなら思い出せる。都合の悪いことは抜かして。これみな年寄りの特性である。

 東京での学生時代。 昭和40年代の後半とくれば、自分のことは言うまでもなく、世間もまた総じて「やちゃくちゃない」日々であった。盛り場ではいたるところにシンナーを吸うフーテン、学生街を行けば赤や黒のヘルメットにタオルで覆面の不逞学生集団とそれを追う機動隊、怒号が飛び交い催涙ガスが目に沁みる。電車には過激な労組のスローガンがペンキで書かれ、駅の広場や地下道ではギターをかきならして反戦歌に陶酔する長髪のフォークシンガーたち、そして「立ち止まらないでくださーい。ここでの集会は禁じられていまーす」と通行人に声をからして呼びかけるハンドマイクを持った係員。路上では右翼の街宣車の軍艦マーチの大音量。ちょっとお茶目な赤尾敏氏の演説。都心ではそんなのが日常の風景だった。と言っても我が年代は、いわゆる団塊の世代よりはちょっと下。昭和20年代初めに生まれた兄たちの典型的団塊の後始末を仰せつかっているという年回りであった。

 しかしそれでも案外のんきな時代でもあった。どうせならいいことを思い出そう。暇なような忙しいような脈絡のない学生生活。学校とアルバイトとその他よしなしごとの日々。古本屋と質屋で金策し友達とメシを食い、呑む。そんな暮らしの中でよく行っていたのが中野。交友関係、交通関係で都合の良い駅だった。サンプラザができる前だったろうか。探検しつつ通るうちに見つけた店の一つに「名曲喫茶クラシック」があった。そのまんまの名前でなんだか上品だ。しかし同種の店とは当時としても一ケタも二ケタも違う群を抜く存在感であった。ここならではの空間と時間が重々しい。驚きと「?」だらけの絶妙な不統一感あふれる店だが悠然として人を惹きつける懐の深さ。今はなき・・・と言いたくなるほどの、人格を帯びた店であった。

 中野駅北口からほど近く、ブロードウエィ手前の路地にあったのである。五木寛之も常連であったという暇つぶしのメッカで、その名声に心動かされ、ひと目見んとて電車を乗り継ぎ探し当てた人はまず呆然とする。口を開けて立ちつくすであろう。廃墟かと目を見張るのである。昭和20年開業。建物は大正5年ものである。なお、写真はすべてネットでの検索によるものを活用させていただいた。撮影の方々に感謝であります。

クラシック前景

 夜景だから割と綺麗に見える。写真はありがたい。入口の庇の上にコーヒーミルが突っ立ってるのはなんのつもりか。中世の看板のようと言えなくもないが危ないではないか。

 中に入るとこの世界である。子供の頃にワルイことして蔵に入れられたみたいな異空間。

クラシック内部

 入ってすぐ左手にいきなり階段があるのだが、その前に小さな関所がある。切符売り場のようなカウンターでバイトのおねーさんに飲み物を注文するのである。コーヒー、紅茶、ジュースからの3択。たしかコーヒー50円。前金で払うとプラスチックの札を寄こし、おねーさんは天井からぶら下がる3本の紐のどれかを引っ張る。そうすると奥に注文が通るという近代的システムであった。そういうわけで前金であるから客は50円払えばあとはこっちのもので一杯で何時間でも居すわるし出入りは勝手、腹が減れば食糧持ちこみの無法ぶりである。でも名曲喫茶との自覚はあるから、店主美作七朗氏自慢のSP再生装置の音響には皆敬意を表している。そんな中で、本に読みふける者あり執筆する者あり眠る者あり別れ話に涙する二人連れありという文化的光景が日々続くのであった。時には入口関所近くに段ボール箱が置かれ、生まれたばかりの子猫が半ダースほどミーミーと貰い手を求めていることもあった。冬になると客は殆ど開店から閉店まで動かない。あったかくてよかったもの。本を5、6冊持って入るのでなんとか間は持つのである。店主氏は一向に気にしない。本業たる絵を描くこととレコード再生への情熱の他は全然たいしたことじゃなかったのだろう。2階の床が傾いていようと吹き抜けの手すりがぐらぐらしていようと椅子の脚がガタつこうと、そんなこたあちいせーちいせーだったのだ。実際床の傾きは初めての客をおびえさせた。

 そんな中野の至宝というか奇宝というか、名曲喫茶クラシックもついに平成17年に店を閉じた。店主氏が亡くなった後のしばらくの奮闘の後であった。上京の折に行ってみたり、人を案内することもあったのだが、それももう叶わぬこととなった。もっとも明らかにアブナイ建物ではあったから、けが人も出ず崩落もせずに全うした60年の無事を祝っておきたい。

 なお、情報によると2007年に高円寺にクラシックの後継店ができているそうである。元の従業員さんがレコードコレクションと調度などを譲り受けてほぼ元通りに再現したとのこと。その名も「ルネサンス」だと。陰ながら武運長久を祈る。

 最後にもう一枚。階段下にちょっと見えるのが関所。いろんなものの傾きをよーくご覧あれ。

中野クラシック2

 名曲喫茶の話題であるからには名曲をもって締めとしなければならない。奥ゆかしく、美作七郎氏の芸術家魂に敬意を表してベートーヴェンの「ロマンス」などいかがでありましょうか。1番も2番もどっちもいいのでゆっくりと。ここはやはり中野クラシックの時代に相応しく、歌心豊かに美しい音を聴かせてくれるNathan Milstein(1903~1992)の演奏で。ウクライナの出身、オデッサの生まれである。