あっぱれプレヴィン

 アンドレ・プレヴィンのことは指揮者として知る人とジャズピアノで知る人とに分かれるかもしれない。映画音楽の人としてはもしかするともっと知られていなかったりして。編曲を含めてアカデミー音楽賞を四回受賞しているのだが。例えばあの「マイ・フェア・レディ」もそうだ。1964年公開の大ヒット映画、その音楽を担当して受賞した。ブロードウエイの舞台ではジュリー・アンドリュースがイライザ役だったが映画化にあたってはオードリー・ヘップバーンに替えて成功(と言っていいでしょうね)。歌の方は吹き替えでマーニ・ニクソンが務めた。残念ながらオードリーの歌は「ちょっと・・・」だったようだ。そういえば「ティファニーで朝食を」の中でMoon Riverを歌うシーンがあったが、可愛らしい声ではあるもののたしかにミュージカルをこなせるタイプではなかった。この時は、パラマウント映画の社長が試写の後で「あの歌はカットしろ」と言ったのに対し、ヘップバーンが立ちあがって「ぜーったいにカットはさせない!!」と言い放ったという。がんばるオードリーであった。

 ついでだが、イライザ役を奪われたジュリー・アンドリュースは、同年公開の「メリー・ポピンズ」でアカデミー主演女優賞を受賞したのだから何が幸いするか分からない。一方のヘップバーンにしてみれば、イライザ役は取ったがオスカーを取られたというので授賞式の後大荒れであったらしい。熾烈な女優戦線である。

 その映画の方のマイ・フェア・レディの音楽は、元々のフレデリックロウのものをプレヴィンがアレンジしただけではなくオリジナルも数曲書いている。ミュージカル映画としての世界的大ヒットを生みだした功績は大きく、アカデミー賞も当然のことだった。一般に、ポピュラー音楽の世界では、作曲(メロディ・メイク)と編曲が別人であるのは普通のことだから舞台でもそれは同様のことでブロードウエイ版でもアレンジャーは別にいる。そうしたアレンジャーの名前が表に出ることがないのは気の毒なことだ。業界では知られても一般にはあまり関心のない仕事ということになる。でも、この人たちこそが実際に私たちが聴く音を作るのだしたいへんな実力が要るのだが。

 

 ちょっと振りかえってみると、ハリウッドの映画音楽の基本パターンを確立したと言われるのは、主にヨーロッパから亡命した実力者たち、特にユダヤ系の音楽家だった。トーキーの開始と並行して、エーリッヒ・コルンゴルト(1897~1957)とマックス・スタイナー(1888~1971)の二人の仕事が重要とされるが、二人とも世紀末のウィーンで育ったユダヤ人であり、オペラやオペレッタの畑で活躍していた。それがナチスの台頭により亡命を余儀なくされたり招かれたりしてハリウッドの人になっていく。スタイナーの方は「風と共に去りぬ」や「カサブランカ」の音楽が代表作だろう。リヒャルト・シュトラウスが名付け親だったこの人は、15歳でオペレッタを書くという早熟ぶり。そしてコルンゴルトの方は更に凄い。クラシックの分野で幅広く沢山の作品を残した作曲家で、モーツアルトの再来と言われた。9歳のときの作品にマーラーが「天才だ」と感嘆したという。ハリウッドの音楽はそうした人々によるヨーロッパ直系のものであった。後期ロマン派以降の手法をたっぷりと受け継いだのだろう。無調や12音技法なども映画の中では効果的にその「音響性能」を活かされている。1930年代からの映画の中にクラシック音楽の歴史が凝縮されている。

 

 そこでプレヴィンであるが、1929年ベルリンユダヤロシア人の家庭に生まれた。本来はAndreas Ludwig Priwin で、後にフランス風の名乗りをしている。ナチスベルリンから逃れ、亡命者としてパリを経てアメリカ西海岸へ家族とともに来たのが1938年であった。なお、既に父親の従弟チャールズ・プレヴィンが映画音楽作曲家として活躍しており、1937年の「オーケストラの少女」でアカデミー作曲賞を受賞していた。父親はもと弁護士であったがここでピアノ教師となった。そうした環境で育った訳である。

 10代のころからジャズピアノを演奏しそのプレイは天才的とされた。ウエストコーストでの活躍が主であるが、オスカー・ピーターソンディジー・ガレスピー、ベニ―・グッドマンたちとも一緒に仕事をしている。ビバップのスタイルながら、滑らかでよく歌うピアノで艶と品の良さがある。そのためか、ジャズの「退廃」が感じられないという評もあったりする。しかし、ジャズ=退廃とする見方も少々身勝手な思い込みではないか。クラシック=退屈・スノッブとする見方と共通の、既成のレッテルに毒されているのではないか。60~70年代の独特の思想傾向に染まった音楽観のようにも思う。無用な衣装は脱ぎ捨てようではないか。

 プレヴィンのピアノはジャンルを横断する音楽的素養の深さと万全のテクニックから来る質の高さが特徴と言えるだろう。以前のエントリーで、ダイナ・ショアとのアルバムから「The Man I Love」を載せたことがある。歌との極上のコラボレーションであった。

 

 ピアノ・トリオの形ではシェリー・マンとのアルバムが実に魅力的であった。その一例が「マイ・フェア・レディ」。1956年のコンテンポラリー制作のアルバムで、ステレオ録音の先駆けでもあった。映画の方は後になっての1964年の仕事だから、ずっと前から既にこの音楽とは深い縁があったということになる。アルバムの中でも魅力的な「On the Street Where You Live」(きみ住む街で)を聴いてみてください。音源がLPからかなと思わせる音で懐かしさがある。ジャケットのデザインが洒落ていて当時から大好評だった。

 

 

 映画音楽には1953年の「キス・ミー・ケイト」から1973年の「ジーザス・クライスト・スーパースター」まで含め、ジャズと共に早くから長く関わっていたが、30代の終わり頃からはオーケストラの指揮者としてのキャリアに軸足を移すと共にクラシックの作曲にも戻っていく。その辺の事情について本人はこんな風に語っている。「映画に関わったことを後悔しているとは言えない。残念なのは、それに長く関わりすぎたことだ。」「もともと訓練されたことに戻ること、長年の野心に取りかかることが問題だった。」

 以後、イギリスアメリカヨーロッパと多くのメジャー・オーケストラの音楽監督などのほか、N響の首席客演指揮者も務めたのでテレビでの登場も多く、もっぱら指揮者としてのプレヴィンを知る人が多くなったかもしれない。自らピアノを弾きながら指揮するモーツアルトのピアノ協奏曲が最高に魅力的だとする人も多い。

 

 ここでは映画の一シーンでかつてのプレヴィンを懐かしむことにする。指揮の方はまたの機会にということで。