マエストロ問題

 音楽界で使われる「マエストロ」という呼称は我が国の言葉だと大家(注:長屋の「おおや」ではなく「たいか」です)とか巨匠とかいうことになる。イタリア由来の言葉で、その源をたどれば「より大きい」「より優れた」という比較級の意味合いのラテン語なのだそうだ。指揮者や演奏家といった芸術家を指す称号であり、とりわけ偉大で高貴な人物に「尊敬の念を込めて」用いられる。なかなかの言葉なのであった。尊敬といったら人格も当然範疇に入ると誰でも思う。だから、自分を「マエストロと呼べ」と強制し、そうでないと返事もしなかったという某指揮者にはちと不適当である。にもかかわらずまあそう呼んでおけば商売上の支障が防げるから世の中にマエストロだらけとなった。ヨーロッパアメリカの話と思ったらわが国でも飛び交う言葉となったぞ。

 

 この言葉を現実に耳にしたことがある。随分前のことだが、ある公共ホールで、フランス人のクラリネット奏者が講師をつとめる講習会に居合わせたことがある。おっと思ってみたら確かパリ音楽院の教授先生ではないかいなとうろ覚えながら。休憩時間らしくティールームでモクモクと煙りを出していた。楽器会社らしき若者が通訳でついていたのだが、その脇で講習会主催の音楽の先生と思しきおっさんが懸命に「マエストロ、マエストロ」と呼びかけているのが聞こえてきてびっくりした。なんともこっ恥ずかしいではないか。当のマエストロさんはなんだか知らんふりで鞄から取り出した新聞を読みつつ喫煙三昧であった。

 

 さて、そのマエストロの先駆者にして代表格が先日来オーケストラのリハーサルを聴いてみているトスカニーニフルトヴェングラーカラヤンたちである。いずれ劣らぬ神話が出来上がっていていわば音楽の聖人に列せられているようなものだが、様々な評伝を読むほどにそのイメージは覆され「うーむ残念だなあ」となる。音楽史上の偉人というよりは音楽市場の偉人が多い。人間だものといえばそうなのだろうが、その人間としても相当に問題があることが次第に分かってきた。リハーサル一つとっても、トスカニーニは奏者に掴みかかり弓を折り、ピアノを蹴り、暴れて楽員に怪我を負わせるほどだし、フルトヴェングラーは何もかもが曖昧で、しかも思い通りにならないとオーケストラに向かって唾を吐きさえしたという。前の方の連中は「フルトヴェングラーの傘」を用意しなくてはと話し合った。

 考えてみればリハーサルの記録は隠し録りでもなく本人が承知の上のものだから普段を伝えている訳ではない。こうした話は公に広報されることなく楽員の証言としてのみ伝えられる。地下水脈のように絶えることなく流れ時に湧水となって人の知るところとなる。愛すべき人物像を伝える挿話としてならありがたいのだが、残念なことにそうした例は稀である。ステージでくるりと客席の方に向き「今間違えたのはワシだ!」と叫んだクナッツパーブッシュくらいか。この人は拍手喝采されるのが大嫌いで指揮台の後ろに衝立を作らせた。演奏が終わるとさっさとビアホールに駆け込む呑兵衛であった。ヒトラーが大嫌いで××野郎と平気で呼ぶ豪快さで愛された。それでいてナチスの時代を生き伸びる強かな曲者でもあった。

 

 カラヤンの場合は全てがプロモーションであり計算であり自己演出である。合理的な練習の付け方は確かに抜群であるがそれも録音されているときのものだから演出がある。彼はトスカニーニ的暴君ではないが誰よりもナルシスティックで冷酷であった。多くの有名オーケストラに対する完全な権力を握って互いを競わせていた。その上に君臨し手綱を握っているのだから荒々しく振る舞う必要は少しもなかった。ただ現世の帝王として、静かにあのきしんだ声で考えを告げるだけでよかったのだから。あるリハーサルですべてがうまくいかなかったとき、彼はオーケストラに向かって静かに尋ねた。「諸君、私がどうしたいかわかるか?」そして、マエストロを見つめる楽員に「全員を縄でしばり、ガソリンをかけて火を着けることだ」と言い放った。恐ろしい静けさがあった。ナチ党員でヒトラーを後ろ盾とするカラヤンの言葉である。誰もジョークとは思わなかったろう。

 

 巨匠たちのこうした実像とその演奏を聴くことをどう結び付ければよいのか分からなくなる。音楽を自分の心に語りかけてくるものとして素直に聴くというのは本当はものすごく難しいことかもしれない。それと知らずに工作されているとすれば恐ろしいことだ。

 日本はクラシック音楽界にとって世界で最も理解のある市場だそうだ。その理解とはレコード会社やコンサートのプロモーターの広報戦略に手もなくひねられるナイーブさと同義であるかもしれない。

 

 どろどろしたオーケストラ政治から離れて、指揮者のない音楽で頭をリフレッシュしたいところだ。ピアノのニュートラルな音、ドメニコ・スカルラッティの「ソナタ短調 L.366」、善き時代の幸福な音楽である。