むかしむかし2

 東京はとんと御無沙汰ですっかり遠い都になってしまった。テレビの画面で見るたびに、様変わりしているのだなあ思うばかりだ。あの街この街、みなにょきにょきと高層化して立派になってしまった。自分が暮らした頃の新旧混在、路地だらけの迷宮じみた都会らしさは希薄になっているように感じてしまう。どこを歩いても、雑駁ではあっても空間に屈折があって陰影が豊かであった。ただし、それは美しかったなあというのとも違うし、昔は良かったという感傷とも違う。なんだか目に入る眺めの「無機質」の度合いが増したなあと思うのだ。

 しかし、70年代を良い時代だったなどというのは物忘れもはなはだしいことで、日々騒乱騒擾の連続で、特に過激派の内ゲバなど日常茶飯事であったのだから文字通り殺伐たるものであった。大学の構内はもちろん、学食や講義中の教室で衆人環視のもと学生が殺される、アパートが襲撃される、交番や三菱重工ビルが爆弾テロにみまわれる・・・そんな時代。今の学生が当時の新聞を見るならば、イデオロギーに魂を乗っ取られ政治ごっこの坩堝に墜ちた「学生」たちの行動がいかに凶悪な結果をもたらしたか、学内外のいわゆる文化人たちが安全地帯からどれほどそれをそそのかしていたか、そしてその嵐が去ったあと口を拭って素知らぬ顔をしていたかがよく分かる。新聞を学校の教材に活用と言うのなら、70年代、あるいは戦中の新聞を使うのがよろしかろう。記事の嘘八百夜郎自大、でたらめぶりを知ることができ、リテラシーの最良の教材になるだろう。なにしろその生き残りの魑魅魍魎がいまだに毒をまき散らしているから油断できないのだし。

 つい頭に血が上っていつになく漢字いっぱいに書いてしまった。落ち着かないといけません。れーせーに。

 

 そんな時代で、大学のロックアウトで授業はなしの学校が多かった。もちろん地方も同様で日本中である。そうなると学生は街に出る。学生街はむしろにぎわうことになって「街が僕の学校だった」状態になるのであった。それが時代の文化の底を支えていたのかもしれない。

 本もよく読まれていたろう。書店、古書店のメッカである神田も、バブル時代の地上げで虫食い状態になる前だからしっかりと店が軒を連ねていた。それぞれが特色ある品ぞろえで、順繰りに巡っても飽きない、本好きにはいわば極楽浄土である。しばしば通った。と言っても買うより売る方が多かったかもしれない。こんにちでは想像できないかもしれないが、本がちゃんとした値段で売れたのである。旅行鞄に詰めて二つも持ち込めばしばらく食えるくらいにはなった。古物の売買であるから学生証携帯は必須である。慣れてくると持っていく本を物色しながら値付けの見当がつき、ほぼ見積もり通りの金額を受け取れるようになった。今、その能力はなんの役にも立っていない。

 困って本を売りに行くくらいだから腹が減っている。電車賃確保の上重い鞄を両手に提げてお茶ノ水に向かう。汗はかくし腕が抜けそうになる。駿河台の坂を下りる頃にはへとへとである。こえーくてたまらないのに閉口して、一度背負子に本の束を括りつけて行ったことがある。楽でいいのだが、どうも二宮金次郎みたいで恥ずかしいので次からは鞄にもどした。

 持ちこむ本の傾向で行く店を選び、礼儀正しく「頼もう」と商売に入る。テキは眉ひとつ動かさずに次々に手に取り中を点検する。奥付を見る。函を見る。帯を見る。時にこちらをチラと検分する。やがておもむろに算盤である。「これで・・・」。こちらは逆の意味で度々のオトクイさんだから信頼関係確立済み。いわゆるラポートができている。基本的には「ハイそれでお願いします」と素直である。たまーに「え・・・」と悲しそうな顔をすると色を付けてくれることもあるにはあったがそれはよほどご機嫌の麗しいとき。下手をすると下げられる。なので気が変わらない内に身分確認の手続きをし、めでたくお宝をいただいて店を辞するのであった。空の鞄を持って店を出ると大抵の場合、実は同道する扶養友人が待っているのである。こちらの取引が終わるまで店の前で煙草を吸っている。えらそうに「おお終わったか。よしメシにしよう」との提案。まったく誰の金だかわからない。しかしこの男とも長い付き合いであるから養わねばならない。二人して「キッチン・カロリー」(まだあるかな)に入り久し振りのまともなランチをいただくのであった。ビールも付けて。しばしの後、満ち足りた顔で共に一服する。労働の後の心地よいツカレを味わうのだ。ああ、しかし、それは其の夜の散財の序曲に過ぎないのであった。

 それから遠くない日、人は再び、膨らんだ鞄を下げよろよろと歩を進めるふたりの男を東京神田駿河台に見出すであろう。

 まあ、そんなこともありました。おしまい。