むかしむかし3

 昔話ばっかりで恐縮です。

 ストリートビューをいたずらしていて、ふと思いついたのが上京して初めて住んだアパートの辺りは今どうなっているのかということ。東京都某区の片隅である。うろ覚えながらもGoogleマップの検索窓に区名町名を入れて探ってみるとさすがである。ちゃんと出てまいりました。嬉しいことにストリートビューの画像もありました。45年前の我が宿がいまだに御健在なのが何より驚き。これはこれはと画面上でくりくりっと近辺を散歩してみたり上空から現状視察などを試みたが周辺の変わりようはたいへんなもの。それでもこちらは残っていた。何とはなしにかたじけない思いである。古びたなあといささかの感慨も。

 ヴァーチャルながら町内を一通り巡ってみたが辺りに当時の面影はひとつもない。我が宿は仕立て屋さんが住まいの二階をアパートにしつらえたもので一見ただの民家。塀の脇の通路から裏に回って外階段から出入りする仕組みであった。これが巷によくある鉄の階段である。小生幼少の頃より履物と言えば下駄の育ちである。中学校には足駄で通った。花の都トウキョウとはいえ生活習慣は変えられるものではない。日常は大いに下駄を用いカラコロと明るく通行した。鉄の階段を下駄で昇降するとカーンカーンとまことによく響く。ついに下に住まう大家が苦情を言いに来た。なんとか下駄は勘弁してくれろとの申し入れである。いやいやあるじ殿、この履物は我が国伝統の・・・・と弁じても駄目であった。ついでに、この際だから言わしてもらうがと、日頃の仲間が集ってのささやかな宴の在り方についても指導が加えられた。大家と言えば親も同然と小生は落語で習いおぼえていたものだからハイハイと返事を二度して恭順の意を表したのである。それが初めての東京の宿。都会暮らしのマナー、いろいろ御教示ありがたきしあわせ。結局出されましたが。

 

 昭和44年の3月も末、入居の日である。夜行列車で上京、早朝に到着したその足で緑の電車に乗り換えバスにまで乗り換えして契約の部屋に到着。まだ空っぽである。友達と二人、畳の上につくねんと膝を抱え、煙草ふかして、かねて手配の引っ越しの荷物が届くのを待つという段取り。まだクロネコだの飛脚だのアートだのが無い時代である。田舎の運送屋が一大決心で東京まで運んで来るというそれ自体がワクワクはらはらもの。グレートレースさながらの旅路を経て我が荷物は到着するかどうか。待つこと暫し、これが見事に着きました。その喜び。流石は我が郷土の誠実なる業者であった。なにしろ積み込むときに呆れられた本の山である。トラック一つあらかた本の入った段ボールなのだから小生には宝物が旅しているようなもの。心配も一入であったのだ。いずれこの本たちが神田の古本屋で大事な役割を果たしてくれるのだから粗略に扱ってはいけないのである。長旅をしてきた運転手および交代要員兼力持ちと我ら2名の合計8本の手が荷を降ろし運び上げてきぱきと収める。昼には片付きめでたく運送屋氏は帰途についた。聞けばどこぞでしっかりと荷を積んで戻るということだからうまくできている。業者のネットワークって以前からちゃんとあったのだ。

 さて、と汗を拭きながら一服した我らであった。この地に新規到来の学生見習いであるからまずは近所を偵察しなければならない。好奇心丸出しのお上りさんが探索行動に出た。

 この辺り、3つの区が接する古くからの街道沿いであった。千の川に因んだ名前の付く通りがある。アパートを出ると都立の高等学校が目の前にあり、時あたかも昼休みである。裏門付近に隠れて煙を立ち上げる数名の生徒。悪い奴らである。マジメに育ったボクタチには考えられないことではないかと目を尖らせる我らであった。しかし何吸ってるもんだべなやっぱりハイライトか?ショートホープか?と知りたくもなるのであったが。

 往来の賑やかなバス通りに出て大きな交差点を渡って間もなくちょっと懐かしげな風情の喫茶店を見つけた。時代を帯びてくすんだ色合いのドアがウェルカムのオーラを出している。看板にいわく「アン・ネテ」。何のことやら。初にお目にかかる言語である。我らとしては流暢なる秋田弁、若干の英語、大いに訛った東京弁の三か国語を話すのであるが、これは語彙にない。謎めいてしかも生意気な感じの名前である。これは入ってみましょうとドアを開けた。意外な広さである。天井も高い。間口に比べて奥行きがある。いわゆる間口税のせいなのかよくは分からぬが、街道由来のこの通りの歴史を思わせるものがあった。

 いらっしゃいませと我らを迎えたのはまず壁にずらりと並んでかかる写真のパネルであった。いずれも大きなモノクロ写真。後で知ればエディット・ピアフをはじめとするシャンソン歌手の肖像であった。引き伸ばされて荒れた粒子が醸し出す味わいが大人の空間を感じさせる。そして聴こえていた音楽は当然シャンソンなのであった。店名の「アン・ネテ」とはフランス語の 「en été」で「夏に」という意味だとメニューに書いてあった。なんだか思わせぶりでいけすかねーナとも思ったがそれは田舎者の僻みというもので、反面ちょっと感心もしたりしていたのだった。でも、夏になんだというのだろうか。誰かの詩から取ったものなのか、教養の無さでいまだに分からないでいる。これが私のフランス語との出会いでそれからというものフランス語の勉強に寝食を忘れ・・・ということは一つもなくて、ただこの店のコーヒーが美味かったのとシャンソンがたっぷり上等な装置で聴けるのが良くてしばしば通った。

 といっても友達と行ったその初見の印象は実はあまりよろしくなかった。昼休みということで例の高校の生徒どもが大きな顔をしているのである。またしても悪い奴らである。我らは二人してなんたることぞと慨嘆するのであったが、待てよと振り返ってみればまあ高校生としては全国共通のこと、我らとて昨日まではこんなものだった、まあがんばんなさいとノンシャラン路線に変更なのであった。昼休み以外は寄り付かない連中であるから時間差で出かけ、コーヒーとシャンソン紫煙とともに味わう場となった。もっとも友達の方はドイツ文学専攻というヨコシマな人間であるからシャンソンのなよやかにしてシタタカな風情はあまりお気に召さなかったようだ。この男、藪をこぎ岩壁を攀じる習性の古代人だったから。

 そのアン・ネテがしばらくして中野のブロードウエイの一角にコーヒーの専門店として進出し、ほんの小さな店ながらがんばっていた。ちょっとウルサ型のマスターなので敬遠しつつも他にないタイプの店だったのでこちらも東京に住む間はたまには入った。見ていればコーヒーの淹れ方も覚えるしいろいろ飽きなかった。古代人の方はウエイトレスを見て飽きなかったようだ。いまだに中野のアン・ネテのあの子などとうわごとを言う。古代人の精神は分からぬ。

 どちらのアン・ネテも今はない店である。通りの姿もすっかり変わっている。ブロードウエイの中もいったい何代の変遷があったことか。なんといっても45年の歳月だ。

 シャンソンもいいなあと思うので一つお出まし願いました。「詩人の魂」シャルル・トレネで1951年の録音。

 こちらは、原語の歌詞と歌人塚本邦雄の訳詞付きのヴァージョン。