ある作曲家の音楽体験から

 ハワード・グッドール、イギリスの作曲家で1958年生まれ。オックスフォード大学ニュー・カレッジ聖歌隊育ちというイギリスならではの経歴の持ち主である。変声期前のボーイ・ソプラノの頃から始まって青年期まで、中世・ルネサンスの教会音楽に始まる今日までのレパートリーを歌いこなす訓練を受けるというのだから、他の国ではまずない音楽教育で育った作曲家。1000年の西洋音楽の歴史が体にしみこんでいる訳である。産み出す作品も、そうした背景をうかがわせるミサ曲やミュージカルであるようだが、一方で『ミスター・ビーン』の音楽も、これはTV版も映画版も担当しているというあたりが面白い。

 このグッドールが、チャンネル4でTVドキュメンタリー番組の制作に携わり、『Big Bangs』シリーズを放送した。それをもとに執筆した本があって、邦題が『音楽史を変えた五つの発明』(訳 松村哲哉 白水社)。この著書の中で、番組と同じにビッグ・バンとして挙げているのは、記譜法、オペラ、平均律、ピアノ、録音技術の五つである。もっとも原題では「Five Discoveries」と表されているから日本語でいう発明のニュアンスとはちょっと違うのかもしれない。どんなに独創的かつ画期的ではあってもその出来事は必ず歴史の文脈上で起こるのであり前後左右のつながりと広がりを含んでいるのだから。そんな視点をもって音楽の歴史のターニング・ポイントを探究している。生き生きとして面白い展開である。

 なお、もとになったチャンネル4のドキュメンタリーはYouTubeで見ることができた。BBCもそうだがイギリスのドキュメンタリーは見応えがある。端的に言えば、アマチュアを(視聴者を)バカにしていない。調査の仕方や登場する専門家が見せる対象への姿勢が魅力的だ。「好きでたまらない、おもしろくてしょうがない」という空気があふれ、目が離せなくなる。

 さてそのグッドール氏の著書であるが、引用したい部分がある。「ここで私の特別な音楽体験を少し披露しよう。」と、幾つかのエピソードが書かれている。中でも次のものが、自分が関わっていることにも通じる内容であったため心に残った。本論を記述する五つの章の間に「間奏曲」として置かれた文章の中にある。少し長めだが、こんなお話だ。

  【 ・・・・・・  最後はグレイター・マンチェスター州にある障害者のための学校での話だ。私は、ハレ管弦楽団マンチェスターに本拠を置く英国で最も伝統あるオーケストラ)の打楽器部門が運営する一連の音楽ワークショップ兼セラピーに、スポンサー(スーパーマーケットチェーンのセインズベリー)から派遣される形で学校を訪れていた。

 生徒たちは精神的および身体的に重度の障害をもっていて、子供ひとりに看護人がひとりずつ付いていた。なかには表情をまったく変えない子もいた。この種の学校ではよく見られる、しっかりと愛情のこもった雰囲気のなかで、打楽器奏者はおどけた仕草を交え、大きな音を響かせながら楽器紹介を始めた。子供たちもすごく喜んでいる様子だった。

 ワークショップのクライマックスは、二十分ほど続く全員参加の打楽器演奏だ。打楽器奏者にギター奏者も加わり、子供と看護人全員に打楽器が手渡された。皆は教えられたリズムで楽器を打ち鳴らしながら、ひとつのオーケストラのようになる。身体を動かせる子供たちはギロやマラカス、カバサ、タンブリンといった打楽器を手に、ブラジルのカーニバルよろしく教室中でコンガを踊りまくる。

 大騒ぎを皆が楽しんでいるなかで、私は、五、六歳の男の子に注目していた。その子は与えられた太鼓をしっかりと抱えることもできず、看護人は彼が床に落としたばちを何度も拾っている。それでも、大変な努力を重ねた結果、皆が元気に打ち鳴らしている単純なリズムを覚えることができた。ほほえむわけでも、他の子供をじっと見るわけでもない。自閉症がひどく、視点が定まらないが、それでも皆に合わせてラッタッタと太鼓をたたいている。子供が太鼓をたたいているだけのことで、何も特別なことはないではないか、と思う人もいるだろう。だがその時、子供の右側にふと目をやった私は、その子の看護人が涙を流しているのに気づいた。涙を見られた女性が戸惑った表情を浮かべたので、私は目をそらした。しかし、演奏が終わったあとで、私は彼女を探し出し、泣いているところを目にしてしまったのだが、何か都合の悪いことでもあったのかと尋ねた。

 看護人の女性は、こう答えた。「あなたにはおわかりにならないでしょう。私は、この子が四年前に学校に入ってからずっと付き添っています。先ほど音楽に合わせて太鼓をたたいていましたが、他の人間のやることにこの子が反応を示したのは初めてでした。初めて他人とコミュニケーションをしたのです。その事実に圧倒されてしまいました。それだけのことです」

 子供は、自分と他の人間を隔てている深い溝を乗り越えて手を伸ばした。それはその子にとって、一般の人が冬に北極圏横断を図るのと同じくらい、おそろしく大変なことだったに違いない。彼が頼りにしたのは、言葉でも、まなざしでも、抱擁でも、ほほえみでも、キスでも、書物でも、絵画でも、映画でも、テレビ番組でも、芝居でも、コンピュータでも、そして人間ですらなくて、音楽がつくりだすリズムだった。これこそが音楽の持つ魔法の力だ。・・・・・】

 このエピソードは実は音楽についての根源的な問いかけを含んでいる。人間にとって音楽とは何なのか。例えば、ピンカ―の主張するように「音楽は単なる聴覚のチーズケーキにすぎない」ということでは済まないのではないかと思う。ここいらのこと知りたいものである。

 他の多くの問題と同じように、音楽のもつ力の正体は誰も説明しきれていない。古代から思索の対象とされ多くの思想家哲学者がいくつもの論を立ててきた。しかし、音楽そのものは、そうした論考がけっして追いつけない変容を絶え間なく遂げてきた。またそれは終わることもないだろう。人間と共にあるからだ。「何かがこう変わった」とは言えるが「何故?」の答えはやっぱり見つからないだろう。音楽の力というしかないものが尽きることなくあるだけだ。それでもやっぱり「音楽ってなんだろう?」と問うことは止められない。その問い自体が音楽の別の顔なのかもしれないのだから。

 ということなのでまず体にスイッチ。いいメロディとリズム、いいノリで梅雨明けを期待しよう。身も心もカビを生えさせてはイカンのだ。男子たるものやっぱり機嫌良く溌剌としてないとね。

 How deep is the ocean - Lars Jansson Trio