Violaは早春の光

 今朝はひとしきり雪がちらちらしていたが、冬の余韻のようないたっておしとやかな振る舞いで間もなく退場。やがて雲も晴れてやわらかな日差しがやってきた。さすがに太陽の角度が違うぞ。やっぱり3月なんだと背伸びしたくなる。と言ってももう12日ですけどね。天気も自分もいろいろあったので「ようやく」と一息つく今日のいちにちなのであった。早春、と口にしてみるのであった。 

 ところで、日差しと言えば、秋田市は年間日照時間が日本一「少ない」とよく言われる。これはかなり低評価のおそれあり、と愛郷心あふれる秋田人(アキタニアンとも言う)は憂えるのである。しかし、待て待て。我らアキタニアンの中にも科学の子あり。探究心やまず真偽を確かめずに置くべきかと秋田地方気象台に照会をかけた有徳の士がいる。回答の詳細はHPにあり、願わくば一覧をと申し上げておくのだが、端折って書くと次の通り。

 「それは本当である。ただし、これは都道府県庁所在地にある気象官署の平年値を比較したもの。全国157箇所の観測官署で比べると、少ない順に『山形県の新庄、鹿児島県の名瀬、長崎県の雲仙』となり『秋田は23番目』である。」

 意外にも、ではないか。どうか地元秋田を含む全国の皆さん、秋田は暗い、などという固定観念から自由になっていただきたい。なんといっても九州の名瀬より日照時間は207時間も多いんだぞ。と、無理やり持ちあげてみたが、実際のところ冬の秋田はいささかキビシイ。それだけ春の陽の光へのあこがれは強く、その気持ちは渇仰と言ってもいいくらいである。

 さて、早春の光、この微妙な天のめぐみに相応しい音を求めるとするならば諸姉諸兄はいかがなさるか。ワタクシはヴィオラこそ、と思うのである。それもこの頃の発見としてである。ヴィオラという目立たない楽器の存在のありように今少しリスペクトの念を奉じてもよいのではないかとの思いがある。地味である、これといって華やかに主張する音ではない、音量も豊かとは言えない、というなんとも控えめな楽器である。数々の哀れなジョークのネタにされ、オ―ケストラでの存在感の希薄さからか、山で遭難しても誰も気がつかない、木が多いだけヴァイオリンよりよく燃える、だのとそれは気の毒な言われようである。ヴィオラ・ジョークというジャンルさえ西洋では成立した。ひどいな。

 独奏曲もずーっとなかった。、ヴァイオリンのいかにも上手そうに聴こえる華やかで緊張度の高い音も、チェロが醸し出す成熟した知性の雰囲気や重厚さを歌いあげる朗々とした音も持ち合わせない。どちらもスター性抜群である。ヴィオラはその間にあって、調弦はチェロの1オクターブ上という、まるで横綱の露払いのような位置づけに甘んじている。文句も言わず主張もせずじっとしている。ところが傍からは音程が悪いと睨まれ、サイズが中途半端で音量が出ない、くすんだような響きはそのせいだ、なんでわざわざヴィオラなんかやるんだ気が知れないなどと、ほんとひどいもんですよ。

 しかし、しかしである。ここからが肝心。例えば弦楽四重奏団サウンドを決定するのはどの楽器か、メンバーを選ぶのに最も重要なのはどの楽器か。この問いに対する答え、それがヴィオラなのだ。第2ヴァイオリンというこれもまた微妙な問題はここではないことにして、なぜヴィオラなのかである。

 それは、まさにヴィオラの音の特質にあるのだろうと愚考するのである。弦長に対してそれを鳴らしきるには不足なサイズ、それにより倍音構成は影響を受け特有の抜けの悪さを生む。鳴りきらない音は胴体内部での干渉を生じさせるだろう。逆に言うと、サイズに比して長い弦を擦ることになるというアンバランスによりその物理的エネルギーは音響に転換しきれず別の形で発せられる。これらのことは検証したわけでもなく推測にすぎないのではあるが、あの特有の音色の意味を考えるとそうなのではないかと「仮に」ではあるが思っている。ヴィオラの渋い音色、まるで自分一人のために弾いていると思わせる内省的な音色、一度気がつくと、おおこれこそはとまで思うのである。チェロほどの王侯のように立派な低音ではない、ヴァイオリンほどのプリマのようなくらくらするような高音でもない、そう、等身大の人間の静かな語りのような音色だ。ヴィオラの音は出すのではなく何かを吸い込むような音なのだ。その吸収力こそヴィオラの真髄である。合奏であればヴァイオリンの音もチェロの音もヴィオラは吸収しその色に変容させる。新たな意味のある音に。これ、つまり対話である。

 ヴァイオリニストが戯れにヴィオラに触れそれ以来病みつきになりヴィオラに転向したというケースも多いと言う。うなづける話だ。音楽が心と離れてはあり得ないことを思うと、ヴィオラという楽器がこの形のままで続いてきたということの意味が分かるような気がする。西洋人のことだ、欠陥なのであれば必ず改良しているはずである。「ヴィオラはこれがいいのだ」、だったのだろう。しかるに楽器事典を見れば、どれもこの楽器の欠点ばかりを挙げている。安易に楽器に優劣を持ちこむまちがった姿勢ではないのかと思う。ランク付けではなく、楽器は音楽をするためにあるのに、とワタクシはここでぼそぼそとヴィオラのようにつぶやくのである。

 タイトルに戻ると、ヴィオラの音は、花咲き誇る春のでもなく太陽のエネルギーをぐいと放射する夏のでもない、今、この早春の柔らかく注ぎ始めた陽の光と語る言葉にも似たり、というはなはだ私的な感想でした。