Remembrance Sunday を見て下さい
追悼するとは忘れないということ。戦没者を追悼する行事は国によって様々なのは当然であるが、それぞれの国の国民の意識がはっきりと表れるように思う。我が国の8月15日をめぐる騒然たる情景が、戦場に命を落とした将兵の短かった生を貶めていることに気付くべきだろう。その死を価値あるものとし、私たちが今日こうしていられることのために捧げられたのだと伝えていくのが私たちの務めであり礼ではないか。戦争など無い方がよい。当たり前である。平和への願いは戦火の中にある国ほど切実だろう。我が国もそれを経てきた。そして更に国が滅びることの無惨さも歴史上無数の国が経験してきたことでもある。戦争は政治の究極の形であるという。ある一人の人間が国の名においてなされる戦争に好むと好まざるとにかかわらず巻き込まれる。不条理極まりないことである。生も死も「私」の出来事である。しかし生まれ合わせた時代と国とがそれを翻弄する。陸に海に空に散った命は、私たちをそして私たちが生きる土台である国を守るためであった。そのことへの敬意を払うべきは私たちの務めだと思う。
追悼とは忘れないということ、そして覚悟も忘れないということではないか。このように書くと右翼とか戦争賛美とかの声が飛ぶかもしれない。愚かなことである。
我が国の姿を写しだすには、よその国を見るとよいだろう。
11月11日をRemembrance Dayとし、午前11時に英国では2分間の黙祷が行われる。1918年11月11日午前11時に第1次世界大戦の終結となる休戦協定が連合国側とドイツとの間に結ばれたからだという。そして、11月11日に最も近い日曜日をRemembrance Sunday として戦没者追悼記念式典を行う。参列者は戦死者を象徴するポピーを胸に付けている。次の動画はロンドン中央部ホワイトホールに建つ戦没者慰霊碑の前で毎年行われる式典の様子である。女王陛下始め王室関係者、首相および閣僚、軍の代表者などが参列しポピーのリースを慰霊碑前に置く。カトリックはもとより仏教その他の各宗教の関係者も同席である。式典の進行に軍楽隊の奏楽が重要な役割を持ち、エルガーの「ニムロッド」から始まる。
子供の頃、町には忠霊塔がありそこでよく遊んだ。町から出征し戦死した若者の名前が彫ってあった。遊ぶ子供らとの歳の違いはどれくらいだったのか。戦後とはいえ、子供ながら自分たちもまた戦争に行くことになり死ぬのかもしれないというのはけっして荒唐無稽な想像ではなかった時代だった。サンフランシスコ講和条約からまだ何年も経っていない頃である。家から持ち出したサーベルやガスマスクなんかが遊び道具でもあったよ。