バッハを聴きましょう

 浮世で毎日を過ごしているとそれなりにいろいろのことがあって心に澱も溜まろうというものだ。彼岸に行ってしまえば気楽なのだろうが、それはそれでもうちょっと先に延ばしたいからこちら岸で頑張るしかない。となれば、心だって時々整理整頓しないといけない。もつれを解くものが必要だ。

 

 バッハの音楽にはそういう作用があると思う。いろんな滞りを整えてくれるようなのだ。自分で弾くならば、例えばピアノの譜面台にインヴェンションかシンフォニアを乗せて1番から弾いてみる。あるいは平均律クラヴィア曲集でもパルティータでも。何曲かを経るうちに、いわば心のデフラグが済んでいるのに気付く。そんな経験が数多くあるのでバッハは特別である。自分の感情の諸々の色を一旦絵具箱に戻してパレットをきれいにしてくれるような、そんな感じなのだろうか。ピアノ曲に限って言うならば、ベートーヴェンのように剣を抜いて自分を励ますのでもなく、モーツアルトのように音の快に遊ぶというのでもない。いわば柱の歪みを整えるといった風にバッハの音楽は心に働きかけてくる。

 ただ聴いていたい、音の世界にひたっていたいとするならばどの曲がいいのか。そんなときには、楽器一本の曲が親密でいい。バッハ自身も教会の楽長という身分を離れて、自分自身にとっても愛着のある曲として書いたのは独奏曲だ。ヴァイオリンの名手でもありヴィオラを好んで弾いたバッハには独自のメロディの世界がある。例えば、30代に書いた無伴奏チェロ組曲。自らヴィオラで弾いたであろうとも言われている。6曲あるうち特に第1番がよく聴かれる。冒頭のプレリュードはコマーシャルにも時折使われるから日本人のほとんどが耳にしているだろう。この6曲が、チェロの練習曲の扱いからコンサートのレパートリーになるにあたっては、カザルスの、14歳で楽譜と出会って以来14年を費やしての研究があったと伝えられている。チェロの新しい奏法の確立と共にである。そのカザルスによって初めて公開演奏されたのが1904年であった。96歳で亡くなるまで、カザルスはバッハを弾き続けた。晩年になっても日に6時間の練習をし、一日の始まりはピアノで弾く平均律のプレリュードであったという人である。まさに心の音楽としてバッハはあった。それにしてもたまげた人ではある。凡人の身としてはかなり困る。

 そのカザルスの演奏。1954年、かつて住んだフランスのプラド村郊外のサン・ミシェル・ド・キュサク修道院での映像である。この時すでに78歳。左手もさることながら右手のボウイングの滑らかなことに驚かされる。ベストの演奏ではないとの評もあるが、そんなこたぁどうでもいい。傾聴すべきである。

 

 

  そして、これがバッハの時代の元の曲の姿に近いのかなという、ビルスマによるバロック・チェロの演奏である。これはまた幽玄の趣きがあって、この曲の持つ深さに心打たれる。

 

 

 さらに、これをギターで弾くとこうですというのがあった。ジョン・フィーリー自らの編曲である。楽器の音域上、原調のト長調ニ長調に移調されている。もしかすると「絶対音感」の原調こだわり耳の人には違和感があるかもしれないが、「音楽」を聴いてもらいたい。ワタクシとしてはこれに一撃を受けました。ギターという楽器の素晴らしさに、そして楽器の枠を超えたバッハの音楽の持つゆるぎなくユニバーサルな力を静かに端然と示していることに。