「映画雑感」となぜかマーラー5番

 「映画雑感」、寺田寅彦の随筆である。ほう、博士は映画のことも書いてるのかと覗いてみたら片手間どころでなかった。そして、さらに昭和初期の映画事情の豊かなことに驚かされた。邦画・洋画、劇映画、記録映画、音楽映画、縦横無尽の攻めっぷりの寺田博士なのであった。実にマメに映画館に足を運び、批評を「映画雑感」としてほぼ毎月発表している。今日でも評価の高い映画史上の名作が頻繁に登場するあたり、今から80年ほど前の日本もなかなか面白い世界だったのだなあと感心してしまった。

 が、このたびは映画批評そのものに関してではなく横道に。「映画雑感(1)」の中にある一文に「ほう!」と立ち止まったのである。

 「『三文オペラ』を見た。」と始まる<五>の中の一文であるがこんな記述があった。「この映画を見た前夜にグスタフ・マーラーの第五交響楽を聞いた。あまりにも複雑な機巧に満ちたこの大曲に盛りつぶされ疲らされたすぐあとであったので、この単純なしかし新鮮なフィルムの音楽がいっそうおもしろく聞かれたのかもしれない」。

引っかかったのは、この前夜に聴いたという「マーラーの第五交響楽」のことだ。はて、その演奏会なるものはいつのことなのだ?とササヤカナ疑問である。末尾に記されたこの文章の初出を見ると(昭和七年三月、東京帝国大学新聞)とあった。これをヒントにして調べてみると、なんと寺田博士、マーラーの第五番の日本初演を聴いたものと推測される。

 昭和七年(1932)二月二七日の演奏会のことであろうと思われる。証拠としては、指揮者の山田一雄が著書『一音百態』の中でこう書いているからだ。「昭和七年二月、東京音楽学校の奏楽堂で日本初演されたマーラー交響曲第五番を聴いたわたしは、その音楽のもつ豊穣かつ宇宙的なサウンドに圧倒され、ふるえがくるほどに深い感銘を受けた」。指揮者はクラウス・プリングスハイム。昭和六年九月東京音楽学校教師として来日し、そのわずか五カ月後に開いた演奏会である。物理学者寺田博士と、後の作曲家にして熱血指揮者山田一雄が同日同夜同一曲に接した訳である。当夜の演奏ははたしてどんなものであったか。博士の感想「疲れた」と、山田一雄の「ふるえがくるほど感銘を受けた」の違いはまことに面白い。山田はこうも書いている。「マーラーの曲に、その頃のわたしは身動きもできないほどに、打ちのめされた」と。

 この演奏会の二ヶ月後、東京音楽学校は本科に新たに作曲部を創設した。プリングスハイムを迎えることで日本の音楽界はようやく作曲家を育てる土壌を得たのだった。入学して二年目の山田一雄は、この演奏会の感動を胸にプリングスハイムの自宅に毎週通い、作曲と音楽理論の個人指導を三年間受けることになる。ここでもう一つスゴイのはプリングスハイム先生が長い滞日中、日本語を決して学ぼうとしなかったということである。さて山田作曲学生との授業はいかなる様子であったのか。

 「映画雑感」からの道草でした。次なる映像はその翌年、昭和八年の奏楽堂での録音で「ローエングリン」。プリングスハイムの指揮でありますが、歌がなんと「藤山一郎」というのでびっくりです。当時の演奏の雰囲気を察してみましょう。この録音よく残っていたと思う。