クラリネットを聴きましょう

 今日は大寒だぞ、と朝のテレビでお知らせがあった。ほんとだ確かに寒い。雪もたんとある。しかもまだ降る気満々の空模様。いい加減にしてくれやいと空を見るが通じる気配もなし。毎年のことながら人間の暮らしもしんどいものだ。そこへいくと猫たちはうらやましい。まあよく眠るものだ。連中のように炬燵で丸くなっていられたらさぞ良いだろうと思う。天気のいいところなら、軒先に干し柿が吊るしてあるような縁側でもいい気持ちだろう。秋田のような雪国では叶わぬことだが、伊豆だとか房総だとか静岡だとか・・・温かな日の差し込む縁側で・・・と想像すると猫ならぬこの体もぐーっと伸びるような心地がする。そうだ、猫の気ままには及ばないが一応我も人の子、心もあれば五分ほどの魂もある。寒さに身を縮めてはいられない。身も心もストレッチだ。冬の日の昼下がりを気持ちよく過ごさねば。心の伸び伸びスイッチを入れてくれる音楽をさがそう。手掛かりは何か。

 カギは音色にあると見た。曲、メロディが聴く側にどう伝わるかは、それを奏でる楽器に大きく左右される。楽器はすなわち音色である。楽器の種類だけ音色があるのだ。そしてそれは人間が必要として作り上げてきた「異なった」音色である。ある楽器がうまくなるというのはその楽器らしい音色を出せるようになることでもある。

 作曲もまた音色と離れてはあり得ない。浮かんで来るメロディは音色を伴っているはずである。どんな楽譜も実際に鳴らしてみなければ本当の響きは分からない。頭の中で鳴るのはあくまでも記憶の音である。なにしろ音は物理的な現象なのだから、現実の空気の振動とそれが生じている時間が必要だ。それを設計し指定するのが作曲である。だから、この曲はこの音でなくてはというイメージがまず初めにあるはず。それが通用すれば聴く者にとってもそれは共有されることになる。曲と楽器とのそういう切り離せない組み合わせは重要だ。そうした例にクラリネットが主役の幾つかの曲がある。まさに取り替えの利かない組みわせの味わいだ。特にゆっくりとした曲調の場合に、これはクラリネット以外にはないだろうということになる。木管楽器の仲間でありながら、なぜかフルートともオーボエともファゴットとも一線を画すビブラートのない音。でもそれが実にいい。吹奏楽クラリネット集団の音とは違う思う存分の音。他の楽器とアンサンブルするときに一本のクラリネットが発する磨きぬかれた音である。独特の倍音構造を持つためにピアノとも弦楽器ともよく調和する。そこに注目したのがブラームスだというし、音色に魅かれ「愛のなかで溶けてしまった感情」と言い表した人(シューバルトが音楽美学講案で)もいるほどである。この楽器の魅力を引き出したモーツアルト、ウエーバー、メンデルスゾーンブラームスの曲などが知られるが、そこには必ずこの楽器の名手達がいた。中には19世紀の名手「ハインリッヒ・ヨーゼフ・ベルマン」のように、自作の曲がワーグナーのものと誤って伝えられたしまった人もいる。ウエーバーはクラリネット協奏曲をこの人のために書いたほどなのに気の毒な扱いだ。ミュンヘンの宮廷管弦楽団の首席奏者として名高く、約90曲の自作曲もありその半数は出版されたというのに。それにしても、長い間ワグナーの曲として演奏され、評論家もレコードの解説に「さすがはワグナーである」などど書いたりしていたというからテキトーなものである。

 そのベルマン作曲の「クラリネットと弦楽五重奏のためのアダ―ジオ 変ニ長調 作品23」です。晴れた冬の日に窓から差し込む日の光に慰められるような名品です。