昔も今も

 E.M.フォースターのエッセイを集めたものを読んでみた。書名は『老年について』。隠居の身としては実にうっとりするようなタイトルではないか。ただし、いまどきの、高齢化への不安が募る時流に乗って、うまいこと売ってやろうという類の諸々とは違ってこれ自体が既にいい具合の古物である。本人も91歳まで生きましたからね。老年問題には相当詳しそうだ。その作家の1900年代初頭から1960年までに書かれたものが集められている。何しろ育ちが乗合馬車の時代だからテンポも緩やかで、感情の量もいい具合に抑えられている。フォースターという人、なんだか端っから老年に達していたような雰囲気である。紅茶の渋みというか、持ち味のイギリス的沈着ととぼけっぷりがよい。話の進め方がゆったりとして、脳の回路がスピードタウンしているこちらの身にはまことに恰好のあんばいである。この作者、映画化された『眺めのいい部屋』とか『ハワーズ・エンド』『インドへの道』の原作で知られるイギリスの小説家である。視点が時代を超えている。

 

 書名に採られた表題のエッセイは、1957年、作者78歳のときに書かれている。まず、老年という状態については知的な検討があまりにもなされずにきていると指摘し、人々は老年あるいは死を統計の問題としか考えていないと言う。そのうえで警告する。老人の側が最後に拠って立つ英知というものを懐疑的に見るべきであると。

 「経験の蓄積が英知につながることもなくはないが、かならず英知が生まれ、それは人に伝えることができ、伝えられれば役に立つという信念」は偽善であると言っているかのようだ。その信念を誇ることを、演説が始まるとぞろぞろと聴衆が議場から出て行く元老院の在り様に譬える。また、「老人は愚かなものだが、賢い場合でもその英知を伝えることはできない。語るのは老人で聞くのは若者の耳なのだから」とも。かくして「体力が衰えれば魂の輝きが増すのではないかという説は残念ながら斥けるほかはない」と断じるのである。そして「直観」という、年齢とはかかわりなく持ち得るものに注意を向けさせるのである。

 考えてみると、英知というものはその直観を核にして結晶を育てるようなものなのだろうか。それならば人それぞれの核になっている直観の素性こそが生涯にわたる問題ということだ。

 このことは、現に横行する「オレの話を聞け、ありがたい話で元気になるがよろし」と、自ら売り込み人に迷惑をかけている、賢人を僭称する生悟りした御方たちのことをを思いださせる。と言ったところでこうしたエライ人たちはフォースターなどを読むことはないだろうし、読んだとしても多分「馬の耳に東から風が吹いてらあ」で吹き抜けるであろう。そうかそうか、何よりも、自分の老いを「知的に検討する」姿勢が無いのが辺りの迷惑の元なのだと了解したところである。きっと、若い頃から元々そうだったのだろうし。

 

 遡って1925年にはこんなことを書いている。題は「無名ということ」。種類を問わず、書かれた言葉と署名との関係についての考察である。まずはエッセイらしく大まかに言葉の機能を「情報を与えること」と「ある雰囲気をつくること」の二つだとずばりと提示する。この「情報」とは真実であることが眼目である。つまり「嘘ではない」から伝えるのだということが建前である。したがって出どころ、責任の所在を明らかにする署名(書き手の正体)を必須とする。よろずの掲示や告知がその例であるとする。しかし、その「情報」に、ある雰囲気が伴う場合がある。ここでいう雰囲気とは、もっと噛み砕けば「特定の言葉に宿るのではなく、言葉の連なり、文体から生じるのであって、それは、われわれの感情をかき立て、血を沸かせる」力のことなのだと喝破する。そして、それが「詩」であり「文学」であることの資格なのだと。それらは、作者の存在、つまり署名を離れて作品それ自体で存在していくことになる、と見るのである。フォースターは「情報は正確なときに真理となり、詩(文学)は自立したまとまりを持つときに真理となる」と主張するのである。優れた作品ほど作者の署名から離れ無名性を持つのだと、典型としてシェイクスピア、ダンテなどを例に引いている。

 そして、このエッセイの最後では新聞について熱く論じる。どうもこれが言いたかったらしい。我が国の新聞人、言論人が憧れてやまない英国のクオリティ・ペーパーの現状(当時)に関して筆圧も血圧も高く筆を走らせる。

 我が国でも、このところ新聞の出鱈目ぶりがいよいよ隠しようもなくなってきて、オクヤミ欄以外は信用できん、記事には記者が署名すべしとの論をしばしば目にする。フォースターの国でもその時代にすでに新聞のウソ、無知、専横ぶりが顰蹙を買い、ケシカラヌことではないかとの議論があったようだ。まさに東にあるものは西にもあり、昔も今もである。フォースターは本腰を入れて思索を進め、こう書いている。ちょっと長いが引用する。(下線は引用者)

 「記事は署名がないほうが、ある場合よりも信用したくなるというのは、逆のように見える。ところが、そこが人間の心理の弱点なのだ。無署名の記事は、普遍的な真理のような印象を与える。一人の人間のか細い声ではなく全世界の英知を集めた絶対的真理が語っているように見えるのであって、現代の新聞はこの弱点に付け込んでいるのだ。これは文学の悪質な模倣である。文学が無署名を目指すあの神聖な性格を横領しているのだ。そして我々が黙っている限り、いつまでもそういう図々しいまねをして、我々の心理の弱点に付け込もうというのである。『新聞の高尚な使命』などと言う。御大層なことを言うものだが、どんな使命があると言うのだろう!・・・新聞は嘘をついて騙すというより、我々の心理の弱点を突いているのだ。・・・我々が許している限り、いつまでもそれを続けることだろう。」

 改めて言うが、1925年のイギリスで書かれたものである。フォースターにしては珍しく、憤りを込めた文章となっているではないか。確かに、現代の「社会の木鐸」の紙面を占める無署名の記事は、いかにも個人を離れた絶対的真実のような装いで澄ましかえっている。これは絶対的真理だから書き手の責任など問う方が愚かと言わんばかりである。社名という包括的な署名があるではないかという欺瞞に隠れているとも見える。放送も同様か。もし、そのことに忸怩たるものを覚え、あるいは書くこと、伝えることに廉恥心を持つ記者たちがいて、「社」や崇める「御本尊」と己の人格を取引することなく、謙虚な姿で書くようになれば新聞も変わるだろうか。だがちょっと待ってほしい。今ある署名記事も有名コラムも相当な感傷主義文学だから期待するのは無理だとの声も聞こえる。入試問題になるのが唯一の誇りなのだから。

 イギリスの偏屈者、E.M.フォースターのエッセイについて駄文を弄しました。

 読んで下さった方に御礼の意味で一曲。The Kenny Drew Trio "When You Wish Upon A Star"