明けましておめでとうございます

 どうぞ今年もよろしくお願い申し上げます。併せて、当ブログの読者の方々、わざわざお訪ねくださる心やさしき皆々様の一年の平安とご多幸をお祈り申し上げます。

 さて、三が日はもちろん茫と過ぎ、すでに明日は七草かというあんばいである。ワタクシの2015年は時間が加速傾向にあるようだ。この分では老化もさくさくと進もうというもの。そう言えば昨日など、ボケを指す語の「痴呆」を近頃ではどう言うのであったか・・・・と思い出せなかった。「認知症」の語が出て来ずにその症状が出たのであった。よかった、今日は思い出せた。

 

 正月を迎えて数え年でいうなら一つ齢を取った。せっかくの高齢化だから今年は古典回帰を心がけようと思うのである。というと、いかにも元来古典に詳しいのが再びという感じだがとんでもない。恥ずかしながら何も知らないからひとつ門を叩いてみようという、若い時分の不勉強を心から反省しての抱負となったまでのこと。かえって新鮮というものである。

 古典に遡るにしてもまずはいくらか親しみのある音楽からと、ここはウイーン古典派の雄ベートーヴェンから始めることにした。ピアノソナタを少しずつ眺めてみようという我ながら殊勝なスタートである。

 御存知32番まであるピアノソナタだが、第1番(作品2-1)の前に、12歳で書いた番号無しの「選帝侯ソナタ」というのが3曲あるから実際は52歳の第32番まで都合35曲をほぼ生涯にわたって書いたことになる。全部を通して見て行くと作曲家としての成熟の過程が浮かびあがってくる。かといって若いころのものを「まだ後期のせーしんせいの高みに達していない、ハイドンの影響が・・・モーツアルトの影が・・・」などと評してしまうのは残念なことである。評論家やそのマネッコをする蘊蓄屋の悪い癖だ。作品はその時点での最終作なのだから、それ自体の値打ちをまず見るべき。

 それで1番から・・・・と調べてみると、このベートヴェンという人は、とにかく他人のやらないことをやるという一大決心によって作曲を進めて行ったのだと分かる。そしてその根本構想は「統合・総合」であるように見える。ソナタという多楽章の曲で、なおかつその中にソナタ形式の楽章を持つという構成をいかに一貫したものにするか、ここが思案のしどころであった。そのための試みを重ねる。メヌエット廃しスケルツォなるものを導入する、ロンド形式ソナタ形式を融合させる、名づけようのない不思議な形式も作ってみる、楽章の区切りを廃し休みなく続ける、などの試みが次々となされた。研究者はその経過全体を見渡して初期中期後期などと分類したり過渡期の作品と言ってみたりする。まあ本人にすれば関係ない話であるが。

 忘れてならないのは、作曲家というのはウィーンだけ見たって大小様々いくらでもいる訳で、その中でオレはルードヴィヒと胸を張るには、老若多国籍問わず同業の群小との違いを確立しなければならない。我が母校の応援歌に「かの群小を凌駕して」という歌詞があったが、その気概である。

 そこそこ美しいメロディやキャッチ―な主題はそこらの連中だって書く。オレの行く道はいずこ?ということがあったと思う。そこでベートーヴェンが見出したのはリズムと音程を楽曲統合の素材とすることであった。メロディを分解し究極を尋ねればそういうことになる。そのときメロディは有機的な構造物となって、全曲を構成する素材の結合体の性格を持つ。ベートーヴェンの曲が建築的といわれる所以である。簡単に言えばごつごつのかっちりである。言いかえればスキの無い演説である。確固たる主張があり、それは傍から口をはさむ余地のない熱を帯びた口調で、とにかく「終わりまで聴け」と迫る。聴く者には、なんだか分からないがなんだかありがたい、という音楽になる。こんなのは無かったので、評判は悪いがエライ人だということになった。そんな姿が後の者には大いなる目標となった。敢えて言えば音楽的にはバッハの生まれ変わりのようでもある。この、余人をもって替え難いというのがなかなか大変な存在なのであった。芸術家像の成立でもある。

 マーラーリヒャルト・シュトラウスベートーヴェン先輩の音楽どれが好き?という話をして、マーラーは後期をシュトラウスは初期のものを挙げたという。両者の性格や傾向の違いを表している。また、どちらも「傑作の森」と呼ばれる中期を挙げないのが面白い。もしかすると超人的な作曲の技を持つ両人からすれば、中期の、革新こそ第一のタッチは生々しくて「ちょっとなあ」とでもいうものだったのかもしれない。

 ベートーヴェン本人も、その中期と呼ばれる「英雄」とかピアノソナタで言えば「テンペスト」「ヴァルトシュタイン」「熱情」を眦を決する勢いで書いた後、ちょっと肩の力を抜きたくなったのだろう。ピアノソナタの中でも最も愛すべき曲を書いている。24番の「テレーゼ」である。25・26と続く3曲を書いた1809年の作。テレーゼとはこの作品を献呈したテレーゼ・フォン・ブルンスヴィクのこと。伯爵令嬢である。この女性、ロマン・ロラン他が思いこんでベートーヴェンの恋人と見られたこともあるがそんな事実はちっともありませんでした。

 ただ、作曲者本人もこよなく愛して奏でた曲であり、もしかするといちばん好きな曲だったかもしれない。なにかしらの思い入れは当然あったことだろう。嬰ヘ長調というシャープが6つも付く調で、黒鍵ばっかり。それだけでもどこか柔らかい響きがする。その響きを静かに生かすアダージオ・カンタービレの導入が付くことや、それまで突っ張らかって追求してきた構成的な主題操作から離れた自然な流れがあることで小春日和のように穏やかな曲になっている。こうしたあたりにシューベルトの先駆となる旋律性がはっきりと見えるのだ。本当はこういうのを書きたいんだようという涙ぐましい心情の吐露である。仕事師ベートーヴェンの本質ここにあり。名前も麗しく仕上がりも優美な佳曲。ワタクシこの曲を高校生の時練習課題に与えられてベートーヴェンのイメージが変わった。パワーとスピードこそわが命とばかりに鼻息荒いワタクシを修正しようとの師匠の思し召しであったかと今になって思う。それ以来、我が心の一曲となりました。

 演奏の動画はバレンボイムのライヴ。お正月の初めの一曲としていかがでしょうか。