「テレーゼ」ふたたび

 昨日は、せっかくだからライヴの映像がいいかなとバレンボイムの演奏を貼ってみた。あれこれ探して選んだが、何十年来抱いてきた自分の「テレーゼ」のイメージとは必ずしもぴったんことも言えないところがあった。32曲全曲演奏のうちの1曲であるからということもあるかもしれないし、元来、小さな空間で演奏者と聴く人との親密な空気の中でこそ光を放つタイプの曲なのかもしれない。音楽は演奏との距離感が大事というのか、大ホールや広いステージとの相性がやっぱりある。

 そういえばクラシックのコンサートも、こういうピアノ独奏なんかの場合は、ジャズのライヴハウスみたいなところでやると案外親しまれるかもしれない。燕尾服なんぞ着ないでひょいっと目の前でやってくれるといい。ぐっと身近で、自分のために弾いてくれてるような感じが持てるだろう。サロン・コンサートというのもあるが、現代の生活感からすればジャズ・スポットでクラシックって新鮮でいいのではないか。なによりコンサートというのは、そんな風に目の前で音楽が生まれる瞬間に立ち会うよろこびを提供するもの。編成に合った空間と距離感というものがあって、それが演奏とぴたりと一致したときライヴは自分のイヴェントとして思い出になる。生はいいなあ、とよく聞く言葉はそんな満足感からくるのかもしれない。

 そういうわけで、別の演奏を改めて挙げてみます。ウィルヘルム・ケンプで、まず1楽章を。なんと楽譜が同時進行していくので、ベートーヴェンに指定されたニュアンスをどんなに丁寧に弾いているかよーく分かる。

 こちらは等身大のテレーゼがそこにいるという感じ。

 ところで、この曲についてベートーヴェン自身はどう思っていたのかが伝わっている。いったいに生前のベートーヴェンは今の我々のイメージとは違ってそんなに広く真価を認められていた訳ではなくて、喝采を浴びたのは「ウェリントンの勝利」ぐらいと言ってもよい。当時の聴衆の趣味と、新時代の開拓者たるベートーヴェンとの間には溝があってなかなか埋まらなかった。

 カール・ダールハウスという学者の『ベートーヴェンとその時代』によるとベートーヴェンこう言ったそうだ。

 「嬰ハ短調ソナタのことが常に話題に上る!しかし私はもっと良いものを書いた。例えば、嬰ヘ長調ソナタ。あれは全く別格なのだ!」

 なんとも憤懣やるかたない様子ではないか。つまり、吾輩の書いたピアノソナタ通俗的な(本人もそう思ってたんですね)「月光」ばかりが受けて、やつらには高度な「テレーゼ」の値打ちが何故分からぬのか!とお怒りなのである。

 しかし、悲観してはいけない。必ず後に続く者はいる。若い世代の才能、シューベルトや初期ロマン派の作曲家たちは、ベートーヴェンのこうした室内楽的で内省的な作品に惹かれ、そこに新たな可能性を見出した。つながるというのはこういうことなのだなあと思う。核心をなすものが装いを変えて受け継がれていく。音楽や芸術の歴史は不易を伝える長い長いリレーである。

 ではケンプで2楽章(フィナーレ)を。