風船をもらったら昔の映画を思い出した

 初詣は近くの勝平神社に参拝が習慣である。町内ではないが、歩いて

程よい距離にある。道々いくつかあるお寺の掲示などを冷やかしながら

行くのも元日のルーティンである。

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 いかにもささやかな佇まいの勝平神社であるが、住民の日々の営みを

見守ってくれる町内の親方のような落ち着きがある。したがってお参り

の光景も至って日常的。普通に御賽銭をあげてガラガラと鈴をば鳴らし

おもむろに柏手をポンポンと打って家内安全などをお願いするのである。

あとはワタクシは破魔矢、娘どもは御御籤などを求め帰宅する。

 さて、そのお参りをすると、この神社はご褒美を下さるのだ。風船で

ある。何やらありがたげな言葉を絵入りで書いた札を下げ、これも近所

のお菓子屋が作るみそパンとも卵パンともサブレ―ともつかない瓢箪型

のお菓子をぶら下げた風船を、感心な参詣者に配っている。それを渡し

てくれるのはこの神社の宮司一家の坊やである。しっかりと女性にだけ

渡すという賢いお子なのだ。その風船はこのように用意されている。

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 で、その風船の山を見て帰るうちに思いだしたのが映画「赤い風船」

だったという訳であります。

 

 1956年のフランス映画、アルベール・ラモリス監督の35分ほど

の短編である。この映画、同時上映がクストー船長(なつかしい)と、

ルイ・マル監督の作った記録映画「沈黙の世界」だったのでそっちの方

もおぼろげに覚えてはいるがこの赤い風船の印象と記憶ははるかに鮮明

だ。田舎の映画館のことだから翌年くらいの上映だったのではないかと

思うがいずれ小学校の二年生かそこいらのことだったろう。母親に連れ

られていったのだが60年余りを経ても忘れられない映画だ。映画歴と

いうほどのものではないが、その1ページ目に来るのがこれだ。

 

 再会は別の形で訪れた。高校を出て東京の学校に進んだのだがある日

銀座のイエナ書店を冷かしていたとき思いもよらずこれに出くわした。

1968年、新着のほやほやであった。初版は1957年、これが8刷。

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 なんとまあ久しぶりだねパスカル君、と欣喜雀躍買い求めいまだ

に手元に置いている。この男の子がお話の主人公パスカル君である。

ラモリス監督の息子さん。

 ストーリーは、ジャン・コクトーが、妖精の出てこない妖精物語

と評したようなファンタジーで、男の子が学校へ行く途中ガス灯に

引っかかっていた赤い風船を「救出」し友達になるというものだ。

まあその後いろいろある訳ではあるが、ことの顛末の舞台はパリの

20区はメニルモンタンである。といってもこれ1956年の風景

であって、瓦礫の残る原っぱなどがあり、まだまだ戦後の雰囲気が

残っているような感じがする。

 

 赤い風船との遭遇はこの場面。パスカル君の仁王立ちがカワイイ。

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 階段の下に黒猫がいる。いい絵です。ガス灯にのぼり救出。いそいそと学校に。

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 さてお決まりの波乱の展開。悪ガキ共から風船を守って頑張りますが

とうとう追い詰められて風船はパチンコの的にされ哀れな姿に。

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 悄然と座り込むパスカル君ですが、ここからが素晴らしい。赤い風船

の最後のメッセージが届いたのか、パリじゅうの風船が集まってくる。

集まった風船は紐をより合わせパスカル君を抱き上げて空へ浮かび上が

る。屋根を超えて高く高く飛び上がるのであります。この浮遊のシーン

どうやって撮ったのか謎です。大空の詩人、と呼ばれたラモリス監督の

面目躍如たるものがある。

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 とまあこれが飛び飛びですが映画撮影中に写されたスチル写真で構成

された絵本の紹介でした。写真もいいなあ。この坊やの演技とても自然

でまるでドキュメンタリー。ちなみにパスカル君の妹のサビーヌさんも

青い風船の女の子役で出ている。一家総出の大奮闘が傑作を生んだ。

 やっぱり動かないと映画じゃない、という方のために、断片ながらも

いくつかYouTubeにアップされているので見てみてください。全編通し

でないのはシカタガナイ。

 なお、2008年にデジタルリマスターされたものが公開されており

DVDも出てますな。


LE BALLON ROUGE - Il Palloncino Rosso - Albert Lamorisse. 1956


Le Ballon Rouge, 1956 - Albert Lamorisse (PART 2)


The Red Balloon (1956) Dir. Albert Lamorisse

 皆さん自分のお気に入りの場面でダイジェストしているようだ。ほか

にもまだまだ観られるのでどうぞ探してみられたし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ユトレヒト 室内楽で 年が暮れ

 題してInternational Chamber Music Festival Utrecht 2019である。

 12月の27日から30日までの4日間オランダのユトレヒトで開かれた。

5年ばかり夏の開催で続けていたのをこの年末年始のシーズンに戻した

のだそうだ。毎年ゲストプログラマーを呼んでいるのだが2019年

ジャニーヌ・ヤンセン(Vl.)がその役を担った。オランダ出身の

名実ともに看板娘だから相当に気合を入れてプログラムに取り組ん

だようだ。御覧の通りである。ちなみに1978年1月7日生まれと

いうから昨日が誕生日。春の七草の人です。

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 そしてこの室内楽のフェスティヴァルは4日間に30のイヴェントを

20会場で開催、一万人以上を集めるという規模である。

https://kamermuziekfestival.nl/en/janine-jansen-programmer-in-2019/

が公式ホームページ。過去のvideoなんかも見られる。

 

 さて、このイヴェントで開かれたであろう多くのコンサートの中から

早くもYouTubeにアップされているものがある。12月27日金曜日に

収録し翌28日に配信という実に素早い対応でスタッフが実に有能。

プログラムは、本大会主役のジャニーヌ・ヤンセンが第一ヴァイオリン

を受け持つ「ドヴォルザークピアノ五重奏曲 イ長調 Op.81」。

言うまでもなくこの作曲家の代表作の一つである。メロディの美しさ

が際立つ名曲だ。

 特に、冒頭、ピアノの密やかな和音に導かれてチェロが第一主題を

歌い出すところは引き込まれる。早くも聴きどころが表れる。譜面は

とってもシンプルなのだが味わい深い。

 

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  あとはⅠ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ楽章と古典的な構成で手堅く進んでいくので

あるが、Ⅱ楽章とⅢ楽章にウクライナ風民謡の形式だとかボヘミア

の民俗舞曲とかが取り入れられているとよく言われる。まあ、それは

そうなのだろうが別にそれが主たる趣ではない。そういった要素も、

あくまでもドヴォルザークの頭とハートを通ったものだ。スメタナ

作曲の師匠だったりして「国民楽派」の形容を付けて呼ばれるこの人

なのでどこかローカルな、いわば二番煎じの作曲家のように軽んじら

れる傾向が無きにしも非ずだがそれは少し気の毒だ。若い時分には、

ワグナーに傾倒したものの次第に遠ざかりブラームスから多くを学ぶ

ことになったしシューベルトベートーヴェンを拠り所としている。

つまりは堂々たる後期ロマン派である。スメタナもそうだが民族的と

されるものは時代を背景とした彩りぐらいに見ておいた方がよいので

はないかと思う。いずれあまり強調するようなことではあるまい。

そんなことを言ったらドイツ・オーストリア・イタリア・フランス

みなそんな要素を持っているのだから。音楽のスタイルというものは

もっと大きな視野で捉えることもできるだろうから。心ひろやかに、

ドヴォルザークのどこかシューベルトに近いものを感じさせる旋律の

美しさ豊饒さ、そして明快な構成を味わいたい。

 聴いて感じるのは、ピアノ五重奏という編成のバランスの良さだ。

ピアノ三重奏にも名曲、傑作が数多くあるが聴いているとどこか窮屈

な感じがすることがある。どうしても特にピアノに音の重なりを託す

といった面があるせいなのか緊張感が強く、息苦しい瞬間もあったり

する。その点、五重奏はピアノが肥大することもなく全体のバランス

がよく取れている編成になっているのかなと思う。それぞれの楽器が

特性を生かして伸び伸びと活躍できるのではないか。ピアノが両手で

ニゾンで動くところなど五重奏ならではの広々感がある、

 

 さて、この演奏、とりわけジャニーヌ・ヤンセンが熱演である。

 集中力のすごさ牽引力の逞しさ変化の幅の広さ・・・すごいもの

がある。会場にいた聴衆はまことに幸せな時間を過ごしたろう。

Ⅰ楽章とⅢ楽章が終わったところで満場の拍手が沸き起こるという

のが何よりもこの演奏の充実ぶりを物語っている。

 

 どうぞドヴォルザークに対する認識を改めさせてくれる白熱の

しかも心に沁みる演奏を聴いてみてください。ワタクシ見終わって

ついブラボーと言ってしまいました。

 https://www.youtube.com/watch?v=eFMV63zy-Xk

  あら、なんだか埋め込みがうまく行かない。しょうがないので

リンクを貼り付けて我慢だ。なんでだろ?

 

 

 

小さな旅、ルパン三世、大野雄二&ジャズ

 なんかこうして三つほど並べるとタイトルっぽくなるので便利である。

とはいえどっちみち暇ネタのよしなしごと、どうぞ御用とお急ぎでない

方はお立ち寄りください。

 

 小さな旅。言うまでもなくこれはNHKの番組名で日曜日の朝8時から

放映されている。1983年4月が初回だから随分長く続いているものだ。

昭和58年生まれのもうすぐ38歳。NHKの数少ないまともな番組として

よく頑張っているし人気も高い。旅人も現在の山本哲也氏は男性7代目、

山田敦子氏は女性16代目 と、いずれも重鎮が世代交代しながら日本列島

をくまなく巡ってくれている。

 現在のお二人はどちらもとうに還暦越えのようなので旅する姿、歩み

の様子などもどことなくお散歩風。滋味あふれ親しみ深いものがある。

時にオット腰は大丈夫かいなどと声をかけ励ましたくなる瞬間もある。

 その番組を眺めながらであるが、うかつなことに先日初めてテーマ音楽

が大野雄二作曲であることに気が付いた。「光と風の四季」と表題がつけ

られてもいるという。途中にギターのソロが入ったりしている長いのが

そのバージョンである。番組では頭としっぽで分割されてるような感じ。


小さな旅~光と風の四季

番組のテーマ音楽としてはこう使われている。富士山きれいだなあ。
小さな旅(NHK「小さな旅」テーマ曲)

  観る人の気持ちを静かに旅の心へと誘う名曲だ。メロディの実に自然

なタッチと程よいスケールのアレンジで毎度心地よく聴いていたのだが

作曲者の名前を見て少し驚いた。あれ、そうだったのかというところ。

 大野雄二と言えばワタクシなどにとっては学生時代に新宿タローなどで

ライブを聴いたこともあるジャズピアノの人であり、かつルパン三世の人

との認識であったからである。

 

 この小さな旅をご本人がピアノソロで弾くとこうだ。


Yuji Plays Ohno's 大野雄二 ソロピアノ 小さな旅

 そして、ルパン三世の方もこんな風。だいじに弾いてる。


Yuji Plays Ohno's 大野雄二 ソロピアノ ルパン三世のテーマ

 イメージが違ったでしょう。根っこの「ジャズピアニスト大野雄二」が

ここで顔を出しているのが分かる。

 

 角川映画犬神家の一族」をはじめ沢山の映画やテレビ番組のテーマ、

CMを作曲し、また数多の歌手への楽曲提供など、その数と範囲の広がり

たるや大変なものだ。Wikipediaではないのでそのいちいちを挙げること

はしないがまあ一度お調べありたい。プロの作編曲家というものの仕事の

ありように触れられる。特にアレンジにおいてはマンネリに陥らずにいか

に大野雄二スタイルを追究し続けるか、これがどんなに大変なことか。

なにしろ1941年生まれですぞ。作編曲に携わって40年を超える。しかも

その一方ではここ数年来、「やめた」として遠ざかっていたジャズピアノ

の魅力に自分自身が再び気づき活動している。なんと身も心もフレッシュ

であることか。まことに敬服の至りである。現にほんの4日前の大晦日

名古屋ブルーノートで2019年の締め、ライブ納めをYuji Ohno&Lupintic6

で行ったと公式Twitterで告げている。すごいな爺ちゃん。

 10歳も「若い」ワタクシとしては「ちゃんとしろ、丁寧に暮らせ」と喝

を入れられた思いである。そうだ、2020年、オレも元気出していこう。


Theme from Lupin III - Yuji Ohno Trio - Lupin III Jazz - Plays the "Standards" - 06/10

  最後にワクワクする大野雄二アレンジの粋を。


◆ Lupin III Theme '80 (Jazz Orchestra) live ver.

 ヨシ、がんばるぞ。明日からな。

 

 

春よ来い 早く来い 新春招福の願いと併せて

一夜明けてお正月となりました。招福の願いを込めて迎えた元日であります。

新春とは言うものの「今日も昨日も雪の空」の秋田ですから、この「春」は

特別な文字で目に映ります。私共雪国の者には一種の幻めいた不思議な感慨

をもたらす言葉であり、春よ来い、早く来い、とあこがれを胸に抱いてこの

新春という文字を眺めています。「新春招福」は切なる実感を込めての挨拶

です。

 

令和二年もしくは2020年というこの年の始まりに、自分のこと家族のこと

周りのこと世の中のこと、諸々の勢いのいよいよ盛んならんことを願って、

一枚の絵を掲げたいと思います。「Primavera」ボッティチェリの「春」。

図版でしか見たことないのですが意外に大きい作品のようで、その寸法は、

というと203cm✕314cm。したがって描かれる人物(というより神々)

の体はほぼ等身大(ちょびっと縮小)と言ってよさそう。目の当りにしたら

神話の世界とはいえ圧倒され画面に引き込まれるでありましょう。この絵の

意味するところ、いわゆる寓意については諸説あり謎もありと専門家をはじめ

見る人の眼と頭脳を刺激してやまないようです。

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Primavera

構図の巧みさは言うに呼ばず色彩の豪奢と美しさ、まさにルネサンスの華ともいう

べき作品です。なによりも美と官能と品位が一枚の画面に結晶しつつもどこか見る

者をぐらつかせ誘う危うさをも秘めているというのがいい。アートというものは

そういう複雑さを確かな技量をもって作品という具体的なものに結実させることが

できて初めてそう称することができるものではないかと思います。

ところで、よこしまなことで申し訳ないのですが画面の右から3番目に描かれる

花の女神フローラの表情を見るとなぜかこの人を思い浮かべてしまう。似てると

いうかそうでないというかよく分からないものの、なんとなくイメージが飛んで

行ってしまいました。んー似てないか・・・エルフのガラドリエルなんですが。

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ケイト・ブランシェット

 

 

 

 

 

インポート成功

旧ブログからの記事と写真等のインポートが無事できました。

いやあ随分簡単になりました。なんともありがたいことです。

 

いずれも戯言の類ですがお暇の折にでもご覧いただければ幸いです。

引っ越してまいりました

FC2ブログから引っ越してきました。と言っても3年ほど全く更新せずに放置して

おりましたのでほとんど廃墟同然のありさま。ひとつ新天地で心を入れ替えての

再出発もよかろうと思い「はてな」に向けて旅立ってまいった次第です。

どうぞごひいきに願います。

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Nice to meet you.

 

なお、旧ブログも「立ち寄り@大工町」の名で2016年3月まで記事を書いており

ました。author名も道草太郎という甚だ締まりのないもので、その名のごとくに

あちらこちらで道草を食ったままぼーっとしておりました。特に行いが改まった

訳でもありませんので変わりなし。

 

先代のブログをインポートできればいいのですが、まだこちらの仕組みも管理方法

もよくわからず、なのでこれから色々調べてみましょうかいという段階でございます。

まずはほんのご挨拶代わりということでとりあえずおしまい。

 

なお、上の方で神妙にご挨拶しております者は見ての通り三毛猫さん。ある夏の夜

人と車におびえつつさすらっておりましたが、奇しき運命に導かれて我が家に身を

落ち着かせることとなりました。まことにツンデレの姫であります。人・ネコ共々

よろしくお願い申し上げます。

 

Violaは早春の光

 今朝はひとしきり雪がちらちらしていたが、冬の余韻のようないたっておしとやかな振る舞いで間もなく退場。やがて雲も晴れてやわらかな日差しがやってきた。さすがに太陽の角度が違うぞ。やっぱり3月なんだと背伸びしたくなる。と言ってももう12日ですけどね。天気も自分もいろいろあったので「ようやく」と一息つく今日のいちにちなのであった。早春、と口にしてみるのであった。 

 ところで、日差しと言えば、秋田市は年間日照時間が日本一「少ない」とよく言われる。これはかなり低評価のおそれあり、と愛郷心あふれる秋田人(アキタニアンとも言う)は憂えるのである。しかし、待て待て。我らアキタニアンの中にも科学の子あり。探究心やまず真偽を確かめずに置くべきかと秋田地方気象台に照会をかけた有徳の士がいる。回答の詳細はHPにあり、願わくば一覧をと申し上げておくのだが、端折って書くと次の通り。

 「それは本当である。ただし、これは都道府県庁所在地にある気象官署の平年値を比較したもの。全国157箇所の観測官署で比べると、少ない順に『山形県の新庄、鹿児島県の名瀬、長崎県の雲仙』となり『秋田は23番目』である。」

 意外にも、ではないか。どうか地元秋田を含む全国の皆さん、秋田は暗い、などという固定観念から自由になっていただきたい。なんといっても九州の名瀬より日照時間は207時間も多いんだぞ。と、無理やり持ちあげてみたが、実際のところ冬の秋田はいささかキビシイ。それだけ春の陽の光へのあこがれは強く、その気持ちは渇仰と言ってもいいくらいである。

 さて、早春の光、この微妙な天のめぐみに相応しい音を求めるとするならば諸姉諸兄はいかがなさるか。ワタクシはヴィオラこそ、と思うのである。それもこの頃の発見としてである。ヴィオラという目立たない楽器の存在のありように今少しリスペクトの念を奉じてもよいのではないかとの思いがある。地味である、これといって華やかに主張する音ではない、音量も豊かとは言えない、というなんとも控えめな楽器である。数々の哀れなジョークのネタにされ、オ―ケストラでの存在感の希薄さからか、山で遭難しても誰も気がつかない、木が多いだけヴァイオリンよりよく燃える、だのとそれは気の毒な言われようである。ヴィオラ・ジョークというジャンルさえ西洋では成立した。ひどいな。

 独奏曲もずーっとなかった。、ヴァイオリンのいかにも上手そうに聴こえる華やかで緊張度の高い音も、チェロが醸し出す成熟した知性の雰囲気や重厚さを歌いあげる朗々とした音も持ち合わせない。どちらもスター性抜群である。ヴィオラはその間にあって、調弦はチェロの1オクターブ上という、まるで横綱の露払いのような位置づけに甘んじている。文句も言わず主張もせずじっとしている。ところが傍からは音程が悪いと睨まれ、サイズが中途半端で音量が出ない、くすんだような響きはそのせいだ、なんでわざわざヴィオラなんかやるんだ気が知れないなどと、ほんとひどいもんですよ。

 しかし、しかしである。ここからが肝心。例えば弦楽四重奏団サウンドを決定するのはどの楽器か、メンバーを選ぶのに最も重要なのはどの楽器か。この問いに対する答え、それがヴィオラなのだ。第2ヴァイオリンというこれもまた微妙な問題はここではないことにして、なぜヴィオラなのかである。

 それは、まさにヴィオラの音の特質にあるのだろうと愚考するのである。弦長に対してそれを鳴らしきるには不足なサイズ、それにより倍音構成は影響を受け特有の抜けの悪さを生む。鳴りきらない音は胴体内部での干渉を生じさせるだろう。逆に言うと、サイズに比して長い弦を擦ることになるというアンバランスによりその物理的エネルギーは音響に転換しきれず別の形で発せられる。これらのことは検証したわけでもなく推測にすぎないのではあるが、あの特有の音色の意味を考えるとそうなのではないかと「仮に」ではあるが思っている。ヴィオラの渋い音色、まるで自分一人のために弾いていると思わせる内省的な音色、一度気がつくと、おおこれこそはとまで思うのである。チェロほどの王侯のように立派な低音ではない、ヴァイオリンほどのプリマのようなくらくらするような高音でもない、そう、等身大の人間の静かな語りのような音色だ。ヴィオラの音は出すのではなく何かを吸い込むような音なのだ。その吸収力こそヴィオラの真髄である。合奏であればヴァイオリンの音もチェロの音もヴィオラは吸収しその色に変容させる。新たな意味のある音に。これ、つまり対話である。

 ヴァイオリニストが戯れにヴィオラに触れそれ以来病みつきになりヴィオラに転向したというケースも多いと言う。うなづける話だ。音楽が心と離れてはあり得ないことを思うと、ヴィオラという楽器がこの形のままで続いてきたということの意味が分かるような気がする。西洋人のことだ、欠陥なのであれば必ず改良しているはずである。「ヴィオラはこれがいいのだ」、だったのだろう。しかるに楽器事典を見れば、どれもこの楽器の欠点ばかりを挙げている。安易に楽器に優劣を持ちこむまちがった姿勢ではないのかと思う。ランク付けではなく、楽器は音楽をするためにあるのに、とワタクシはここでぼそぼそとヴィオラのようにつぶやくのである。

 タイトルに戻ると、ヴィオラの音は、花咲き誇る春のでもなく太陽のエネルギーをぐいと放射する夏のでもない、今、この早春の柔らかく注ぎ始めた陽の光と語る言葉にも似たり、というはなはだ私的な感想でした。