11月が去っていく

今日は11月最終日。天気もまことに暗ーい感じでシトシト雨が降っている。外を

眺めては、ふーむ・・まるで北ドイツのようではないか、などと呟くのである。

行ったこともないのに。まあそんな感じに日の光に乏しい今日が霜月の晦日

何となく気持ちにも影が差してくるのでやはり人は天然の生き物だ。陰につけ

陽につけ、何かしらの影響を天地の現象から受けてしまうのが理であろうから

逆らってもしょうがないのだが何か措置を講じたくはなる。

 

さて、気持ちに限らず「明暗」というものは截然と分かれてあるものではなく

いわばスペクトルのようにひとつながりのもの。グラデーションをもって行きつ

戻りつするはなはだ微妙なコンディションを呈するものではないか。その変化の

様を音楽に当てはめれば、それは音による緊張と解放の過程の妙を味わうことに

ほかならない。一言で「明るい曲、暗い曲」「楽しい曲、悲しい曲」などと評

してしまうのは極めて乱暴で粗雑なことだ。人の存在と同じく、もっと複雑で

微妙な何かを時間の中で示している。快の局面と不快の局面を合わせ持ちつつ

なのである。その中で人の「憂愁」に働きかけ感情の整理あるいは調整をして

くれるもの、そうした類の音楽のいくつかを自分のプレイリストの中に持って

いればそれは財産であり喜びでもあるだろう。

 

そうした陰影に富む音楽がモーツァルトのものだとも思える。現代ではまさに

明快で整った音楽の代表のように言われるモーツァルトの曲が18世紀当時の

ウィーンの人々には「何か得体のしれない不気味さや底の知れなさ」があると

して必ずしも愛好されなかったという側面があった。むしろその感覚の方が

深くモーツァルトの本質を捉えていたのかもしれない。時代を先取りした斬新

さの故だけではなかったのかもしれないということか。

 

ということで今日は弦楽五重奏のKV.515ハ長調に親しむことにした。親愛なる

ハ長調である。1楽章冒頭の音型などはドミソそのもの。なのに5声部の両端

の声部の対話と内声の充実が、ちょうど人の心のスケールで感情の風景を描き

出す。絶妙だなあ・・・と聴き取るには演奏のテンポが肝心である。あらゆる

弦楽四重奏団がもう一人のヴィオラを加えて演奏しているが実はなかなかこれ

というのに出会わない。総じて速い。ワタクシには勘違いとしか思えないのだ。

で、これだなと思うのが、ヨゼフ・スークを招いて第1ヴィオラに据えて演奏

したスメタナ四重奏団のものである。あくまでも個人の感想です。

 

この曲は五重奏とは言うが第1ヴァイオリン、第1ヴィオラ、チェロの3本が協奏

するような作りなので、何よりも堂々たる風格がなければならない。ここで

聴ける演奏のテンポ感がまさにそれで、せせこましさとは無縁の音楽の時間を

開いてくれる。1976年、DENON技術陣によりプラハで収録された演奏だ。

当時最新のPCM録音によるLPでリリースされたもので、ワタクシはこれをLPで

時々聴く。針を落として待つと無音の中から音が立ち上がる。当時ウオーっと

驚いたものだった。今聴いてもどうもCDより豊かなものを受け取れるように

思うのは多分思い込みに過ぎないのだろうけれど。年寄りの感傷だなこれは。

 

その演奏をDENONがCDで再発したものだろうと思われるのがこの動画。

まあ聴いてみてください。気持ちを新たに12月を迎えましょう。


モーツァルト: 弦楽五重奏曲 第3番 ハ長調 KV515 スーク, スメタナ四重奏団 1976