年の初めの ALL OF ME

「謹賀新年」とまずは皆々様にご挨拶。旧2020年は思いのほかにゴタついた

年で世界中もれなく嵐に見舞われましたが、明けて2021年、なんとか穏やか

な年にと願わずにはいられません。そんな思いで、雪の晴れ間に用事を果たしに

外に出て近くのお寺の前を通りかかったらお地蔵さんに雪の帽子が。並んだ姿が

ずいぶんご立派だったので失礼して撮影。どうかよろしくお守りくださいという

通りすがりのお詣りであります。

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さて、善き行いも済んだところで、明るく聴き初めをしたいものだと考えました。

Aから行かねば、と安易かつ無根拠に選択して、年の初めの ALL OF ME と相成っ

たのでした。なにしろ曲の運びの明快さが正月の多少空気の抜けた頭にもすっと

入って来るから申し分なし。冒頭のドッソミーという音の動きもこの上ない簡潔

さで風通しがよい。この曲のメロデイ自体が音を追っかけて行くとコード進行と

あいまってフレーズの頭がド・シ・ラ・ソ・ファ・ミ・レ・ド・シ・ラ・・・と

いう具合に順番コになっているので、聴いていて自然に乗せられるという仕掛け

があるかのよう。なかなか隅に置けない曲なのですね。

 

歌詞はお約束の恋の歌でたわいもないと言えばそれまでだが、私のハートを奪っ

といてそれっきりってひどいじゃないの、なんで私のすべてを・・・と実に積極

果敢なのか切ないのか、複雑微妙なよう。とくれば、あまり恨みがましく歌うの

はふさわしくない。小気味よく快調にそして多少のコケットリーを加味して歌っ

てほしい。ということでエラ・フィッツジェラルドの登場です。この安定した声

の座りの良さ、伸びのある節回し、さすがという感じですよ。気持ちをからりと

明るくしてくれるのでぜひ聴いてみてください。

www.youtube.com

アレンジはネルソン・リドル。うまいものです。そして、1931年のこの歌、

本来は当時流行の片思いや失恋を歌うトーチ・ソングの一種なのにエラが歌うと

つれない相手もなんのそのといった馬力を感じてしまいます。ウジウジしたもの

を吹っ飛ばす心地よさをがなんともいえない味を出しています。

では皆の衆、2021年、なんとか立ち直りましょうぞ。

 

枯葉

同じ言葉でも人によって思うことは違う。「枯葉」と聞いて思い浮かべるのが

落ち葉焚きの焼き芋の人もいるだろうし、すっかり葉の落ちた街路樹の下を歩く

時のカサコソという音を思いだす人もいるだろう。ワタシなんぞは広場で落ち葉

を集めてこんもりと山にし、その中に潜り込んで遊んでいた子供の時分を思い出

したりもする。忍法木の葉がくれー、のつもりだったのだろう。あったかいもの

でしたよ。子供だからできたことだなあ。七十にもなった今やったらそれは相当

に問題行動だ。

 

まあそれはともかくとして、「枯葉」のタイトルはスッと音楽に結び付く人も

多いだろう。それがシャンソンであったりジャズであったりはするだろうけど

スタンダードの名曲として代表のようになっていることは確かだ。そして更に

その中でお好みというか「これでなくては」と、自分の中で決めている演奏が

いつとはなしに定着しているのだろうなと思う。それが例えばジャズだったら

ビル・エヴァンス、ウイントン・ケリー、マイルス・デイヴィスジム・ホール

などなど定番とも言うべきアルバムがあり何十年と経過しても聴かれている。

ある本によれば大物ジャズピアニスト二十人で調べたら最も多く演奏されていた

のが「枯葉」だったという。

 

とはいえあまりにも定番で「ああ、枯葉ね、はいはい」という退屈と紙一重

ところもある。実のところこの曲を新鮮な味わいをもって演奏するというのは

かなり力を試されるのではないか。テーマをちゃっちゃと済ませて、アドリブ

に入ればこっちのものだとばかりに身勝手に扱われては白ける。名曲中の名曲

だからこそ、陳腐平凡に陥らず、この曲そのものの良さを緩みなくしっかりと

聴かせてくれる演奏がよい。

 

と思うこの頃にひょいと出会ったのがこの演奏。Beegie Adairというピアニストで

ございます。ビージー・アデールと読むのでしょうか。1937年生まれ。今月11日

に83歳の誕生日ですよ。素晴らしい。音楽が人を成熟させる力というのは大した

ものではないかとも感じます。それを受け取る側の問題であることは言うまでも

ないことですが。曲に誠実に向かうってこういうことかなと感服したのでした。

  


Beegie Adair Trio - Autumn Leaves

 

 

11月が去っていく

今日は11月最終日。天気もまことに暗ーい感じでシトシト雨が降っている。外を

眺めては、ふーむ・・まるで北ドイツのようではないか、などと呟くのである。

行ったこともないのに。まあそんな感じに日の光に乏しい今日が霜月の晦日

何となく気持ちにも影が差してくるのでやはり人は天然の生き物だ。陰につけ

陽につけ、何かしらの影響を天地の現象から受けてしまうのが理であろうから

逆らってもしょうがないのだが何か措置を講じたくはなる。

 

さて、気持ちに限らず「明暗」というものは截然と分かれてあるものではなく

いわばスペクトルのようにひとつながりのもの。グラデーションをもって行きつ

戻りつするはなはだ微妙なコンディションを呈するものではないか。その変化の

様を音楽に当てはめれば、それは音による緊張と解放の過程の妙を味わうことに

ほかならない。一言で「明るい曲、暗い曲」「楽しい曲、悲しい曲」などと評

してしまうのは極めて乱暴で粗雑なことだ。人の存在と同じく、もっと複雑で

微妙な何かを時間の中で示している。快の局面と不快の局面を合わせ持ちつつ

なのである。その中で人の「憂愁」に働きかけ感情の整理あるいは調整をして

くれるもの、そうした類の音楽のいくつかを自分のプレイリストの中に持って

いればそれは財産であり喜びでもあるだろう。

 

そうした陰影に富む音楽がモーツァルトのものだとも思える。現代ではまさに

明快で整った音楽の代表のように言われるモーツァルトの曲が18世紀当時の

ウィーンの人々には「何か得体のしれない不気味さや底の知れなさ」があると

して必ずしも愛好されなかったという側面があった。むしろその感覚の方が

深くモーツァルトの本質を捉えていたのかもしれない。時代を先取りした斬新

さの故だけではなかったのかもしれないということか。

 

ということで今日は弦楽五重奏のKV.515ハ長調に親しむことにした。親愛なる

ハ長調である。1楽章冒頭の音型などはドミソそのもの。なのに5声部の両端

の声部の対話と内声の充実が、ちょうど人の心のスケールで感情の風景を描き

出す。絶妙だなあ・・・と聴き取るには演奏のテンポが肝心である。あらゆる

弦楽四重奏団がもう一人のヴィオラを加えて演奏しているが実はなかなかこれ

というのに出会わない。総じて速い。ワタクシには勘違いとしか思えないのだ。

で、これだなと思うのが、ヨゼフ・スークを招いて第1ヴィオラに据えて演奏

したスメタナ四重奏団のものである。あくまでも個人の感想です。

 

この曲は五重奏とは言うが第1ヴァイオリン、第1ヴィオラ、チェロの3本が協奏

するような作りなので、何よりも堂々たる風格がなければならない。ここで

聴ける演奏のテンポ感がまさにそれで、せせこましさとは無縁の音楽の時間を

開いてくれる。1976年、DENON技術陣によりプラハで収録された演奏だ。

当時最新のPCM録音によるLPでリリースされたもので、ワタクシはこれをLPで

時々聴く。針を落として待つと無音の中から音が立ち上がる。当時ウオーっと

驚いたものだった。今聴いてもどうもCDより豊かなものを受け取れるように

思うのは多分思い込みに過ぎないのだろうけれど。年寄りの感傷だなこれは。

 

その演奏をDENONがCDで再発したものだろうと思われるのがこの動画。

まあ聴いてみてください。気持ちを新たに12月を迎えましょう。


モーツァルト: 弦楽五重奏曲 第3番 ハ長調 KV515 スーク, スメタナ四重奏団 1976

 

 

 

 

この第九に涙す

2000年5月1日、ベルリンフィルハーモニーのヨーロッパコンサートのライヴで

ある。

指揮はClaudio Abbado。ベルリンフィルの創立を記念して始まったというヨー

ロッパコンサート、10年目のこの年は本拠地での開催。この第九にはスウェーデン

の合唱団を招いての公演であった。

 

ワタクシ、このコンサートのDVDを持っていたのだけれど第九だけはなんとなく

敬遠して観ていなかった。第九は3楽章だけが好きで他はあまり・・・という無知

と偏見の塊状態だったのである。しかし、なんということだろうか、やはりこの

曲はすごいのだと思い知らされた。一種神格化された存在のベートーヴェン

しかもその究極の作品と崇められるのに臍をまげていた。素直でないのは本当に

よろしくない。

 

とあることから必要あってこの手持ちのDVDを再生することになり時間の都合

からいきなりⅣ楽章をON。そこでまずオーケストラの真剣さにガツンとやられ

た。天下のベルリンフィルの手練れがそれこそ全神経を注いで演奏に向かっている。

全員が、何度も何度も演奏しているであろうこの曲を最上の敬意をもって演奏して

いるのが伝わってくる。彼らにとってベートーヴェンの音楽とは特別のものなのだ

ということがビシビシと伝わってくる。そういう気迫みなぎる面構えが画面に並ん

でいる。一撃を受けました。

 

そしてすべての情念の昇華ともいうべき合唱の入り。ここに至って思わず知らず

ウルウルっとなったのです。こんな第九はまずめったにないでしょう。すごいな

これは、の一言に尽きる。

ちょうどその部分をベルリンフィルのサイトがYouTubeにアップしています。

見てみて。

この演奏の全曲も誰かがアップしてるがそっちは広告が入ってるので割愛。


Beethoven: Symphony No. 9 / Abbado · Berliner Philharmoniker

ところで、今年は日本全国年末恒例の第九演奏会はどうなるのでしょう。

たいへんな影響がここにも、です。

※ざっと調べてみたら12月中の公演は全国で12。うち東京が8であとは大坂

とか横浜でした。やっぱり少ないでしょうね。ただこの後どうなるかまだ予断

を許さないとも言えますが。

 

チューバはエライ

 楽器の変遷を見るとよくもまあこんなに様々なものを作り出してきた

ものだなあと思う。とりわけ低音域楽器をより低く、の探求の頑張りっ

ぷりには驚きさえ覚える。高い音の方にとは違ったなんらかの思い入れ

が人間にはあったのか、あるいは今もあるのか、そんなことを思う。

 人間を取り巻く自然界で発せられる低音というのは大体が災いを連れ

てきたり不安を掻き立てたりする。洞窟に吹き込む風が内部で共鳴して

起こす不気味な唸り、噴火に伴う揺れと地鳴り、大型動物の群れがのし

歩く地響き、雷鳴と稲妻の巨大な衝撃等、こうした低音のエネルギーは

人間の魂を不安と畏怖で揺さぶってやまない。現代人とて変わりはない。

 

 目を転じて音楽の場面での低音の立場を見ると、その扱いの様子には

何か共通のイメージというか象徴性がありそうだ。一言で言えば強靭さ

さを表すものと。音の象徴性というのは、それ自体が少々捉えることが

難しいものであるし、またその捉え難さ自体が、音あるいは音楽の本質

でもあろうからあまり無責任なことを言うのはやめておきますが。

 でも、低音の魅力ってのはその深々とした存在感の「重み」にあるの

でなかろうかということくらいはご同意いただけるのではないか。

 まあ簡単に言うと「頼もしさ」でしょう。巨樹に寄せる思いに似て。

 

 などと適当な考察まがいのことは置いときましょう。数ある低音楽器

の中で注目したいのがチューバだというのが今日のお話であります。

 吹奏楽では結構何台も並んでいたりするから金管楽器群のシリーズで

納得感があるけれどオーケストラとなるとそうはいかない。大体使われ

ているのが後期ロマン派以降の曲だし、初めてスコアにチューバを書き

入れたのがワグナーだといった具合だからオーケストラの楽器の中では

遅い登場だ。大きな新入生である。奏者も大抵は一人しかいない。就職

口としては超絶的に狭き門である。入団するとずっといるからその方が

辞めるまで空きはない!とこういう訳である。チューバ奏者にとっては

いつでも就職氷河期である。せっかくチューバに魅せられて修行しても

活躍の場はなかなか・・・という具合であるので、昨今はアンサンブル

活動を低音仲間でやったりソロでやったりと巨大な楽器を抱えながらも

フットワーク軽く生きるのである。お相撲さんのよう。ああ見えて意外

なほどスピードがあるのもおんなじ。

 例えばこんな芸当、チャールダーシュという曲があるのだが、様々な

楽器で名人芸を披露するのによく演奏されるもの、それを見事に吹いて

のける。トロンボーンと掛け合いです。


V. Monti - Csardas - trombone tuba

 腕前もさることながら楽しんでる様子がなんかいいなと思いますね。

 このように意外なほどに音をころころ転がせる楽器なんですが、この

楽器の醍醐味はやはりオーケストラの中で発揮されるクライマックスで

の全楽器のフォルテッシモをすべて引き受けて、どっしりと支えるその

重厚かつ顔まっかっかの役割にあるのは間違いない。ただし、その場面

に至るまでが長い。ひな壇の一番上で楽器を侍のように脇に据え、腕組

みして最終楽章のそれも第三コーナー回ってホームストレッチという所

までじっと待つ。その忍耐の美徳と、その間溜めに溜めたエネルギーを

一気に噴火させる排気量のでかさは見事なものである。

 しかしそれはお馴染みの姿であるので今日はチューバコンチェルトと

いうことでステージ前面に出てきてもらいましょう。ヴォーン・ウイリ

アムスの名曲です。二楽章いいなあ。この楽器の併せ持つロマンチック

な一面が味わえる。吹いてる人もなんかチューバだね。


Concerto for Bass Tuba- Ralph Vaughan Williams (New Jersey Symphony Orchestra)

 さてこのチューバという楽器、どうやって作られるのか。これが知り

たいと思っておりましたが、製造過程の動画がありました。ミラフォン

というドイツのメーカー。チューバの名器を生み出す世界のメーカーが

いろいろある中の一つであります。ルーツはチェコで、戦後のドイツに

職人勢が移り住んで築き上げた、先の大戦と東西冷戦がらみのドラマを

背景に持つという会社であります。ミラフォンのHPに行くと会社の歴史

が載っているので見られたし。

 チューバの、この図体の大きな楽器がいかに技術の粋を尽くして作ら

れるか、この動画は実に誇りを込めて丹念に描いております。ブラスの

板の裁断、接ぎ、展ばし、ロウ付け、はんだ付け、切削、しぼり、研磨、

メッキ、ピストン・ロータリーバルブの製作調整、と実に多岐にわたる

技術を要する製造の現場を見ることができてワタクシなどは改めて尊敬

の念を強くしたのでした。何よりもなんと美しい・・です。楽器は種類

を問わず皆それぞれの美を持っていて見ていて飽きないのですが、この

金属によって造形されたチューバもまたこの上ない品位の高さと堂々と

した佇まいで一種の尊厳を感じさせてくれるではありませぬか。

 そのうえで「舞台裏で」としたタイトルも渋いです。


Miraphone - Hinter den Kulissen

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フリューゲルホーンの魅力、そしてセルゲイ・ナカリャコフとの遭遇

 昨夜は日付が変わらないうちに記事を上げようと焦ってしまい、少々

物足りないままに片づけてしまった。なにが物足りないのかと言うと、

それはフリューゲルホーンのこと。フリューゲルホルンと呼ばれるのを

よく聞くのだが何となく「ホーン」という方がこの楽器の持ち味に合う

ような気が勝手にしているので敢えてホーンで押し通してまいります。

 で、問題は呼び方とかそんなことよりも「音」なのである。この楽器、

トランペット奏者が持ち替えで使うことが多いので、サブ楽器のような

イメージを持たれるが、いやいや決してそのようなものではない。確か

に出自を見ると1830年頃にオーストリアで生まれたとか、フランス

のアドルフ・サックスが特許を取ったサクソルンが本物だとかルーツに

ついて取沙汰されるのでトランペットのようにシュッとして澄ましては

いない。やはりどこか陰影に富んだ苦労人の面影を持つ楽器だ。無意味

に柔らかな音を持つわけではない。気楽に吹きっぱなすような楽器では

ないのだ。

 

 楽器の構造を言い出すとそれはもう音響学の世話にならなくてはいけ

なくなるので大概にするが、このフリューゲルホーンとトランペットの

違いの一番大きな点は管の形状。どちらもあのぐるぐる巻きを伸ばした

管の長さは、例えばB管の場合は130cmほどで変わらない。そして

息の入り口から出口の朝顔に向かって開いていくのもラッパだから同じ

なのだが、その開いていきっぷりが違っている。円筒形から円錐形にと

推移するその比率が違っている。円筒形部分と円錐形部分の比を見ると

トランペットはほぼ1:1、一方のフリューゲルは1:4近くになる。

また朝顔の口径もフリューゲルはトランペットより大きい。したがって

その円錐形もより長く直径が大きいものになる訳である。こうした要因

が物理的にフリューゲル独特の音色を作る。さらにマウスピースも実は

内腔の形に違いがある。トランペットは浅い鍋型、これは明るく倍音

豊かな音になる。フリューゲルのものはそれより深い鍋型、グラスの形

ともいわれる。ワイングラスですね。これが音を柔らかくする。因みに

フレンチホルンのは内腔が漏斗型です。これはもっと暗めの穏やかな音

になる。

 

 という具合に、近いようでいて結構遠い間柄なのがこの二つの楽器。

だから簡単に持ち替え楽器と言うけれどその都度異なった音響特性から

来る奏法の微妙な調整を要することになる。世の人はともすると金管

楽器を御しやすいと思いがちであるが、ラッパ吹きの面々は相当に苦労

を重ねているのである。何しろ自前の唇、リップが発音リードになるの

であるからそのコントロールは厳しい。音を出しているのはリップなの

でありマウスピースはそれを楽器に伝えるメディア。あれは押し付けて

鳴らすのではないということのようだ。

 

 さてそのフリューゲルホーンの音色をこれ以上はないというほどに磨

き抜かれたものにしてみせたのがロシア出身のSergei Nakariakovである。

これはもう次元が違うとしか言いようのない超絶技巧でトランペットの

概念を変えた若者であった。モーリス・アンドレ他これまでも名人は数

多くいたがこの坊やは(なにしろ10歳でデビュー)もう別でした。

完璧なテクニックとリップコントロール、しかも実に自然な呼吸のまま

楽々と吹いてけろりとしている。循環呼吸も駆使して「なんでも」吹く。

 まずこの演奏でこのセルゲイ君の音を聴いてみてほしい。「愛の挨拶」

 
Elgar- Salut d´amour - Sergei Nakariakov

 これはライブ映像で「夢のあとに」。


Sergei Nakariakov.G.Faure-Apres un reve.

  こうしてあれこれ聴きまわっていたのだが、ベニスの謝肉祭やらカルメン

変奏曲やら「すげーなー」と言ってるうちに、ついにこれに行き当たった。

たまげました。2002年、まさにこの人のために作られた曲。悪魔か鬼の

ようなテクニックを劈頭から要求される。しかもそれは容赦なく最終音まで

続く。全力疾走で100キロ走るような曲です。当然、循環呼吸は常に必要

となりいったいこの人の呼吸機能はどうなっているのかと思わせます。曲は

敢えて言えばセルゲイ・ナカリャコフへの挑戦状というもので音楽的な面で

の心への浸透がどうかと言った面では聴く人それぞれによるでしょう。共演

のオーケストラは香港小交響楽団。この演奏も大したものです。日本人楽団

員もパートの首席などでいるようで頼もしい。各楽器が獅子奮迅の活躍です。

見ていると管楽器の連中、指を折って休みの小節を数えている姿が見えたり

するのがリアルでよろしい。2019年2月のコンサートのライブでした。

まさに息を呑むとはこのことか、といった演奏です。いざ尋常に勝負。


Jörg Widmann: ad absurdum – Concerto for Trumpet & Small Orchestra (2002) (Hong Kong première)

 

 

 

 

 

 

寒中お見舞いと申し上げたいところなれど

 本日1月20日は二十四節気によれば「大寒」とある。わが幼少の頃、

これをなんと「おおさむ」と読んでいたのである。小寒は、当然こさむ

である。「おおさむこさむ」と歌にもあるから何の不思議もなかった。

恥ずかしい。無知の知を知るとは衝撃と赤面を伴うのである。

 

 大寒となれば立春も近い。あと2週間で巡ってくるというのが約束。

この冬はさほどの雪も降らず、昨日オトトイと実施されたセンター試験

も天候が特段の影響を与えるようなことなく済んだ。当家にも関わりの

あることなのでホッとしたのであります。こりゃもう春じゃわいなあと

いきたいところなれど、きっとそうもいかないだろうというのがこれも

天と人との約束ごと。この先幾つかの寒波は覚悟しなければなるまいと

空を仰ぎ見たりするのである。それにしても空の青と言うのは美しい。

 

 まあそんなこんなで春が待ち遠しいのだがこれは一種普遍の感情とも

言えるようで、人は日脚の伸びと共に胸にさざ波が生じるように春への

思いを募らせるようだ。早い話が万国共通というやつ。そして、かなり

それは切ないものでもあるようだ。特になにかしらの屈託やナヤミの種、

ままならない事情があったりすればなおのこと。人みなそんなものを抱

えて生きてますからそういう意味でも春を待つ心の模様が深い色合いを

もつのも万国万人共通と言えよう。大人ならね。

 

 さて、春が来るのを信じよう、やがてやってくる春を信じよう・・と

いう歌があるのですね。「You must believe in spring」と直球の題です。

映画「ロシュフォールの恋人たち」、音楽はミシェル・ルグラン作曲と

いう名作ミュージカルの中のナンバーなのですが、原題はデルフィーヌ

の歌というのだからこの英語のタイトルはまるで関係ないようなもの。

そちらの方はストーリー展開に伴う歌詞なので至って能天気なものに思

えるのだが、英語の方はもう歴としたスタンダードナンバーとして切々

たる思いを歌い上げる逸品となっている。

 

 男女どちらの声が聞き手の気持ちに適うかは誰が歌うかやその時々で

当然違ってくるが、これは間違いなかろうというのがトニー・ベネット

ビル・エヴァンスのもの。


You Must Believe In Spring - Tony Bennett and Bill Evans

歌詞は次のとおり。各位におかれましては気ままに解釈を。

When lonely feelings chill

The meadows of your mind,

Just think if winter comes,

Can spring be far behind?

 

Beneath the deepest snows,

The secret of a rose

Is merely that it knows

You must believe in spring.

 

Just as a tree is sure

Its leaves will reappear;

It knows its emptiness

Is just the time of year.

 

The frozen mountain dreams

Of April's melting streams,

How crystal clear it seems,

You must believe in spring.

 

You must believe in love

And trust it's on its way,

Just as the sleeping rose

Awaits the kiss of May.

 

So in a world of snow,

Of things that come and go,

Where what you think you know,

You can't be certain of,

You must believe in spring and love.

 

 この曲は歌としては勿論のこと、メロディがプレイヤーの心をがっちり

と掴まえたと見え、選ぶのに困るほどの演奏がある。ここでは、アート・

ファーマーのフリューゲルホーンでいきましょう。トランペットとも違う

サックスとも違う不思議なタッチと温かみが言葉なくして思いを語る。


Art Farmer with The Great Jazz Trio - You Must Believe In Spring

 ピアノはハンク・ジョーンズ、ベースはエディ・ゴメス、ドラムスが

ジミー・コブのザ・グレート・ジャズ・トリオ。日本制作のアルバムで、

アレンジが佐藤允彦さん。いいですねぇ。

 

 実は今日の夕方、友よりメッセージ来信あり、アート・ファーマー

聴きながらこれより晩酌す、と。あらまウラヤマシと思ったのでお返し

にかくかくしかじか綴った次第であります。どちら様もごきげんよう